我と我が身と彼のものと。

常在辞世。渋枯れ好みの“詫びオタク”…なんとなく更新中。

伝怪 07 

伝怪

 そしてその日から、父はあっち側に行ったきりになった。
 厳密に言えば微妙に異なるが、聡美にとってはおなじことだった。父は聡美をあの忌まわしい母とつねに認識し、〝頭の中の母〟とふたりの暮らしを始めたからだ。
 朝起きて、朝食の支度をする。
 ふたり分の弁当を詰めて、大学に出勤する。
 夕方には家に帰り、おでんを作って待っている。ふたりでおでんを食べ雑談をし、そのあとは夢中になって研究の話をする。……延々とくり返す一見変わらない毎日。けれど聡美の存在は、はじめからなかったようにそこから抜け落ちていた。聡美を母の名で呼ぶ父は毎夜のごとく求め、聡美の中で果てるようになった。
「じゃあ、いってくるよ。マサミ」
 ドア越しにかけられる声は、まるで呪いの文言だった。
 聡美はベッドの中で縮こまり、今朝も父のその声を聞く。もう学校も、体調不良を理由に何日も休んでいた。それでも、「お大事にね……」とだけ告げる電話口の担任が、聡美の絶望を余計に煽った。お前に手を差しのべるものなど、どこにもいないのだ。そう宣告されたようで、追い詰められた思考がますます深い闇に落ちてゆく。
 ――自分の居場所は、完全に消滅した。
 聡美がそれを思い知るのに、時間はいらなかった。明日こそは、明後日こそはと歯を食いしばってみても、父がこっち側へ戻る気配はなかった。父の中の小さな世界には、母しかいらないとでもいうように。
(うぅん、もしかするとお母さんでさえ……)
 考えるとまた涙があふれ、天井がぼやけて滲んだ。この最後の砦の四畳半ですら、もはや安全地帯ではなくなった。あのアルバムのころまで時間を巻き戻し、〝母と新しい家族を作ろう〟とする、壊れた父を待つ地獄の窯へと変わり果てたのだ。
 そう、新しい家族。
 おぞましい妄想に吐き気をもよおし、聡美はベッドから跳ね起きた。部屋を飛び出すとトイレに駆け込み、へたり込んで便器を抱える。用意された朝食も弁当も手をつけていない聡美の胃袋は、昨夜から未消化のおでんを吐き出した。
 ようやく、儀式の本当の意味が理解できた。
 聡美を母に見立てた父は、聡美と子供を作ろうとしている。
 欠けてしまった〝妻〟という記号を聡美で埋め、思い通りにならない過去を封印し、家庭を築くところからやり直そうとしている。
 結局、父が欲しているのは〝妻〟と〝子供〟という記号だけだった。
 それが聡美の母である必要はなく、聡美である必要もない。無条件に自分を認め、自分を擁護してくれる場所。それが父にとっての〝家庭〟であり、妻も子供もそれを構成するただのパーツにすぎないのだろう。
 今さら突きつけられた真実が、聡美のこころを打ちのめした。父が守っていたのは、聡美の居場所などではない。父が縋っていたのは、自分のためだけに存在する、空っぽでひとりよがりな城……その残り滓だったのだ。
 ――お願いだから、自分の妄想を押しつけるのはやめて……。
 不意に母の言葉が蘇り、また吐きそうになった。
 お母さん……お母さん、お母さん。
 思わず出かかった声は、左手を強く噛んで押し殺す。今さら母に救いを請うなど、許されるはずもない。では、誰に?
 惑えば惑うほど思考はもつれ、聡美はトイレに蹲ったまま途方に暮れる。
 あからさまに奇異な行動でもあれば、周囲も気づいたかもしれない。だが父の言動は聡美の件を除けば比較的まともだ。訊ねれば自分の名前も年齢も答えるし、勤務先も大学名まで正確に言う。職場の人づき合いが乏しかったことも災いし、大学でも父の異変が悟られた様子はなかった。もとより近所づき合いが断絶しているのだから、私生活はなおさらで、聡美以外に事実を知るものはいない。
 改めて現実を認識し、聡美の背筋に悪寒がはしった。軽いヒステリーを起こして、左手に立てた歯に力を籠める。
(誰でもいい、助けて――)
 切実にそう念じた時、ほらね、と母の声がした。動揺する聡美が弾かれたように顔を上げると、空け放したままのドアの先に人影が見えた。短い廊下の奥に佇むその影は、リビングから漏れる日差しでおぼろげに揺らぎ、母かどうか判然としない。
 けれど影法師は、はっきりと母の声で言う。
「あなたは、いつだってそう。……自分勝手に人を軽蔑して、困るとすぐに手のひらを返す。本当に、いい性格してるわよね」
 え、と言葉を詰まらせ、聡美は影に目を凝らす。
 影は嘲笑うように、ゆらゆらと揺れた。
「でもまあ、自業自得かしら。あなたが自分でまいた種だし」
「違う、わたしは……」
「なにもしてないって? あはは――」
 心底おかしそうに明滅すると、影は一歩分だけ聡美に近づいた。
 それが現実のものでないことくらいわかっていたが、聡美はふり払うことも目をそらすこともできなかった。
「なんでも誰かのせいにする、って、私のこと馬鹿にするけど……あなたのそれは、どこか違うの? なにもしないのは、なにかしたのとおなじなの。まさかとは思うけど、知らなかったって被害者面すれば、全部許されると思ってるわけじゃないわよね?」
「そ、それは……」
「あぁ、思ってるんだ。気持ちわるいわね、それ」
 呆れ果てたようにまた影は揺らぎ、聡美は耳を塞いで首をふる。嫌だ。なにも聞きたくない。なぜ幻覚にまで、自分が責められなくてはいけないのか? それでもそれを許さないというように、影の母はさらに一歩分近づいてくる。
「教えてあげましょうか? あなたが酷い目に合うのは、あなたが弱いから。弱さを言い訳にして、強くなろうとしないから」
 ゆらり、また一歩分。
「だから、このまま破滅するの。弱いあなたは、今度も晒しモノになる」
 影が喋るたび、聡美の視界が点滅する。
 視界が点滅するたび、影との距離が縮んでゆく。
「実の父親と関係をもった娘として、死ぬまで蔑まれつづけなさい。だって仕方ないわよね? 今までの噂と違って、これは事実だもの。あなたの弱さがまねいた、否定しようのない事実……でも、それが嫌なら」
 気がつくと、影は目の前に迫っていた。手を伸ばせば届くほどに。
 その位置まできて、はじめて影の全貌がわかる。だがそれは、予想に反して母のものではなかった。蹲った聡美の目線にある、節くれた膝。そこからつづく、筋張った腿。骨盤の形がはっきり出た腰の上には、肋骨の浮いた胸があった。男……それも、全身を血脂じみた包帯で巻きしめている。そしてその上にある顔が――
「任せてしまいなさい、彼に」
 掠れた母の声を合図に、すとんと聡美の鼻先に突き出された。
 包帯の隙間から覗くまっ赤な目が、じっと聡美を見据えてくる。聡美は条件反射で顎を引き、息を詰めて目を見開いた。
「ひ、ぃ……」
 いきおいで仰向けに倒れた聡美は、そのまま白目を剥いて昏倒した。薄れてゆく意識の中で、奇妙な歌声を聞いたような気がした。トン……トン……トンカラ……トン……トントン……トンカラトン……それは母の声のようでもあり、またカヨちゃんの声のようでもあり、誰の声でもないようにも思われた。

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伝怪 06 

伝怪

 半狂乱になった、見苦しい剥き出しの女……ああ、そうか。今度はあの時、母の不倫が発覚した、小学六年のころの記憶だ。
「そりゃ、たしかに最初は、そんな浮世ばなれしたところが素敵だと思った! 大学講師って肩書にだって、アカデミックな響きがあったわよ! なのに、実際はどう? 稼ぎは少ないし、出世だってしない! 研究研究なんて言って、休みになるたびフラフラどこかへいなくなる! 家だって、いつまでもこんな団地暮らしで――」
 父をなじり飛ばすその姿に、聡美は絶句した。
 取ってつけた不満。ありきたりなセリフ。言動のひとつひとつが自分本位すぎて、子供の聡美でも吐き気を覚えたほどだ。
「それでも、私は我慢したの! いつもニコニコ笑って、良妻賢母でいられるように一生懸命つくしたわ! それを、なに? たった一度の過ちが、そんなに許せない? 他の男の手垢がついたから? ほんのちょっと、穴の形が変わっただけじゃない!」
 髪をふり乱し、夢の中の母は叫びつづける。
「お願いだから、自分の妄想を押しつけるのはやめて! あなたが、家族に執着してるのは知ってる。世間に認められない焦りを、家庭って幻想で埋めようとしてることも気づいてる……けど、なんで私がつき合わなきゃいけないの? 女であることを無視されて、母を強要される苦痛が、あなたたちに理解できる?」
 そうわめいて迫ってきた母の口からは、腐った水槽の臭いがした。
 きっと腹の中に隠した本性が、そんな異臭を放つのだ……掴みどころのないまどろみの底で、薄ぼんやりと聡美は考える。
 誘惑に耐えられなかった、脆くて弱い母。
 それを全部なにかのせいにする、無責任で汚い母。
 どんなにつらくても、自分は母のようにはならない。自分は決して〝魔に刺されたりなんか〟はしない。そんなものは、ただの言い訳だ。自分を甘やかすことしかできない人間の、都合のいい世迷い事だ。でも……
 夢の奥のもっと深いところから、誰かがそっと訊ねてくる。
「……本当に?」
 カヨちゃん、これはカヨちゃんの声だ。
「あの女の血を引いてるクセに、よく言えるね」
「そ、それは……」
 冷やかに言い捨てるカヨちゃんに、全身の血が一気に引いた。だって、それこそ聡美の責任じゃない。不倫をしたのは聡美の母であって、聡美はなにもしていない。それにそれを言うなら、カヨちゃんこそあの父親の――
「ほら、もう人のせいにしてる」
「あ……」
 言葉を失う聡美の前に、憎しみを籠めたカヨちゃんの目が近づいてきた。
 キィキィと癇に障る金属音が、どこかから聞こえてくる。
「結局、さーちゃんの決意なんて、その程度だよ。エラそうなこと言っても、人に迷惑かけることしかできないんだ。あの女みたいに。……だったらもう、開き直っちゃえばいいじゃない。人間なんてみんな、被害妄想のカタマリなんだから」
 さあ、とカヨちゃんの手が伸びた。
 なぜかその手には、ボロボロの包帯が巻かれていた。
「だから、早く呼ぶの……あの名前を」
 嫌だ、それだけは絶対。聡美は懸命に耳を塞ぐ。その手のひらをすり抜ける声が、ギリギリと頭をしめつけてくる。
「どうせ、あの母親から産まれた子なんでしょ?」
「裏ではこっそり援助交際してるって、本当なのかしら?」
「やっぱり、血は争えないわよねぇ」
 嘘だ、そんなことしていない。もう限界だ、カヨちゃんの家みたいに引っ越そう? 新しい場所で、親子ふたりでやり直そう? けれどふり返った父の眸は、どこか遠いところに焦点を合わせたままだった。
「……なに言ってるんだ、聡美? もし、お父さんたちまでここからいなくなったら、帰ってくる時にお母さんが困るじゃないか」
 そうして父は、おろおろ泣き崩れた。
 母の名を呼びながら、駄々をこねる子供のように地べたを這いずりまわった。
「マサミ、マサミ……すまなかった、マサミ」
 聡美は耐えきれなくなり、ついに夢からも目をそらす。
 もがき、あがき、青い闇から現実の世界に浮上する。だがそこにも、やすらぎなど待っていなかった。もがいて掴んだのは、聡美に覆い被さっている父の髪。あがいて絡んだのは、聡美に割って入ろうとする父の足。目の前に、父の顔があった。
「ごめんな、〝マサミ〟」
 ――違う、それは母の名前だ。
 半覚醒の意識の中、聡美は息を飲む。しまった、父のスイッチが入っている。無駄だと知りながら、一応の抵抗を試みた。泣きじゃくる父は、お構いなしに聡美のスウェットをたくし上げる。すぐにブラはずらされ、胸があらわになった。まだ成長過程にあるその小ぶりな乳房に、父がむしゃぶりつく。
「マサミ……マサミ、マサミ」
 うわ言のようにくり返される名前に、自然と涙が滲んだ。
 いつどうやって、スイッチが入ったのかはわからない。もしかすると夕飯の声をかけにきた父の前で、聡美がなにか寝言を口走ったせいかもしれない。あるいは、やはり月経の血が放つ雌の臭いが……両腕で泣き顔を覆いながら考えるが、もう遅い。なんにせよ、今夜の父は〝あっち側〟に行ってしまった。
 あっち側の父は、聡美と母の区別がつかなくなる。
 その傾向が表面に現れたのは、聡美が中学に上がったばかりのころだった。
 今日のように不意の生理が訪れたその夜、聡美は汚したパジャマを洗うため風呂場へ向かった。すでに零時をまわっていて、家の中は静まり返っていた。
 寝ている父を起こさないよう、足音を忍ばせた。
 そんな闇の中に、パタリとなにかを捲る音がした。身を縮ませた聡美は、条件反射で音の元をたどった。厚紙同士が当たる、小さくて籠った音。聡美の部屋と隣接するリビングから、その音は聞こえていた。
「お、父さん……?」
 こわごわ声をかけてみたが、返事はなかった。
 代りにもう一度、パタリと音がした。
 意を決してリビングに足を進めると、床に座り込んだ父の背中が見えた。月明かりだけを頼りに、なにかを食い入るように見つめていた。
「……お父さん?」
 ふたたび声をかけても、反応はなかった。時間ごと止まったように微動だにしない父の背中に、聡美はそろそろと近づいた。肩越しに父の手元を覗き込むと、そこには床に広げた古いアルバムがあった。
 聡美の知らない、まだ年若い父と母が写真の中にいた。
 聡美はその時、自分が声を漏らしたかはもう覚えていない。覚えているのは、いきなり首だけで振り向いた父の口から出た言葉だけだ。
「どうした、マサミ。こんな時間に?」
 瞬間、心拍数が上がった。
 聡美を透かして母を見る父の目は、あきらかに正気をなくしていた。パニックになった聡美は自室に駆け戻り、朝まで布団を被って震えていた。投げ出してきた汚れたパジャマは、次の朝きちんと洗濯されていた。
 この儀式が始まったのは、それからすぐのことだった。
 はじめての時は、破瓜の痛みとショックでなにもできなかった。次の時は抗ったが、頭脳労働とはいえ父も男だ。女の、しかも子供の力で、止められるわけもなかった。回数が重なるたび、少しずつ行為はスムーズになった。性器が傷つくのを避けるため、身体が勝手に反応するということを、聡美はあとになって知った。
 これで、何度目になるだろう……。
 組み敷かれ全身をまさぐられるうち、聡美は諦めて抵抗をやめる。母の名前を呼びつづけながら、父は聡美のスウェットを剥ぎ取ってゆく。胸から腹、腹から下へと這ってゆく舌の感触に、身をこわばらせて耐えた。
 ほら、大丈夫。こうしていればあっという間だ。
 目をつむって、じっと我慢すればきっと。
 この前も、その前も、そうやってずっと凌いできた。不安に押しつぶされて決壊した父を、聡美は受け入れると決めたはずだ。だって、父は最後の家族だから。聡美の存在を許してくれる、唯一の人間だから。
 明日の朝になれば、いつもの父に戻ってくれる。それを信じて、侵入してくる父の熱を堪えた。内側を掻きまわされる執拗な痛みに、意識がまた遠のいてゆく。ベッドが軋む音に混じって、耳障りな金属音が響いてきた。錆びついた自転車のペダルを漕ぐような、強引で脅迫的な音だ。キィキィ、ぎぃぎぃ、キィキィ、ぎぎぎ……落ちて行った、今度は深い眠りの奈落で、輪光をまとって白刃が閃いた。

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伝怪 05 

伝怪

 鉄製の玄関ドアの前に立つと、やはり中には父の気配があった。ほんの少しだけ逡巡した聡美は、音を立てないよう注意してドアを開ける。さっきの幻聴も気にはなったが、今は父の状態を確かめるのが先決だ。
 上がり框の先にはダイニングの入口が見えていて、すでに忙しく夕食の支度をする音が聞こえていた。ゆっくりと靴を脱ぎ、鞄を胸に抱いて近づいてゆく。おそるおそるキッチンの様子を窺うと、ふり向いた父がにっこりと微笑んだ。
「ああ、おかえり〝聡美〟」
「た、ただいま……」
 ちゃんと自分の名前が呼ばれたことで、ほっとして息を落とす。
 ……よかった、今日の父は大丈夫だ。
 それが確認できただけで、ひとまず安心できた。そうなるとおかしなもので、あれだけしつこかった頭痛も、嘘のように鳴りをひそめていた。気分もいくらか軽くなり、包丁をふるう父の手元をそっと覗き込む。下処理された牛すじ。丸のままのちくわ。練り物もいろいろ。半月切りの大根はたぶん、ガス台に用意されている米のとぎ汁で下茹でするところだろう。予想通りの、幸せだったあのころの味。
「は、はは、今夜はおでんでいいかな?」
「うん、お父さんのおでん……大好きだから」
「そうか、そうだよな」
 バツがわるそうな父の笑顔には、曖昧な笑みを返しておく。
 なぜなら献立がおでんになるのは、〝今夜は〟でななく〝今夜も〟だったから。それでも不器用な手つきで母の味を再現しようとする父に、涙があふれかけた。気取られないよう踵を返すと、聡美は背中越しに小さく声をかける。
「……その、毎日ありがとう」
「いいから、早く着替えてきなさい」
 照れくさそうに手をふる父には、きっと今の言葉は届いていない。
 明日の夕方にはまたおでんを作り、聡美に困り笑いでこう尋ねるのだ。
 ――今夜は、おでんでいいかな?
 聡美はこの二年間、そんな毎日をすごしている。毎晩父の作ったおでんを食べ、まったくおなじ世間話をくり返す。もっともそれは、図書館で見つけた小説がとか、昔読んだ詩集がとか、あたり障りない話題に限られるのだが。
 父のこころは、ずっとあのころに留まっていた。だとしても〝こっちの父〟でさえあってくれるなら、聡美はそれで幸せだった。
 大学講師である父は、このためだけに自分の講義を午前に集中させてくれている。市の郊外にある総合大学の分舎も、都内にある文系大学の本校舎も、かけもちしているふたつの職場、そのどちらもをだ。
 もちろん理由は、ひとり娘である聡美の面倒をみるため。
 教員の娘である以上、それがどんな意味かは聡美だって知っている。教授や助教授への出世の道も、そのための研究や学生の信頼も、すべてを諦めたということだ。そこまでして、聡美の居場所を守ってくれている。
 専門にしている文化人類学というのが、どんな学問なのかまでは詳しくわからないけれど、かつては習慣にしていた休日のフィールドワークすら、今は家事や聡美の相手をするためにやめてしまっていた。
 ただ、一度トラウマのスイッチが入ってしまうと……。
 とりとめもなく思考を巡らせて、その先を聡美は放棄した。不吉な想像をして、もし今夜も現実になったらどうするというのか。
 自室に戻ると、蛍光灯のスイッチを入れる。
 チカチカと点灯した白い光が、つつましい四畳半を照らし出す。
 強引に押し込んだベッドに、勉強机がわりのパイプデスクがひとつ。縦長のスリムな本棚には、教科書や参考書のほかに、いつの間にか集まった文庫や文芸誌が並んでいる。友達と話を合わせる必要のない聡美は、漫画の類はほとんど読まない。
 およそ中学生らしくない部屋だが、ここは聡美にとって最後の安全地帯だった。この殺風景な空間に身を置くだけで、全身の緊張が緩んでゆく。
 鞄を下ろし部屋着に着替えると、どっと疲れが出てベッドに倒れ込んだ。ゴロゴロした違和感はしつこく下腹部にまとわりついたが、ナプキンをする余裕もない。もうなにも考えるのが嫌になって、天井のクロスに目を泳がせる。
 やがて聡美は、うつらうつら眠りに落ちた。
 うたた寝の浅い夢の中で、聡美は小学三年生の子供に還っていた。
「ふぅん、包帯巻きの怪人ねぇ」
 興味深げに言ったのは、壊れてしまう前の父だった。ちょっと不満げに唇を尖らせる聡美の隣には、おなじく幼女のカヨちゃんがいて、期待に目を輝かせている。これは〝例の都市伝説〟のことを話したあの日の記憶だ。
「見た目は別として、話のディテールは通り物に似てるな」
 読んでいた本から顔を上げ、父は目を細める。パラパラとめくって示したぶ厚い文庫本の一ページには、異様に長い杖を斜に構える襦袢姿の老爺と、乱れた着物の日本髪を結った女の人が浮世絵タッチで描かれていた。たしかこの本は父のコレクションで、妖怪研究で有名な漫画家が描いた妖怪図鑑だ。
「とおり、もの……?」
「妖怪の名前さ。そういう民話や怪談を集めるのも、研究の一環だって言ったろ? 斬られた人は、ってクダリは派生形と思えなくもない」
 けれど得意顔で語り始める父の記憶は、どういうわけかノイズ混じりで再生される。妖怪と怪人……同様に……起源が……人間の脆さ……肩代わり……それに、痩せぎすで包帯巻きの……これは父の描いた……絵……ざらついた映像が復活すると、ともかく――と本を閉じ、父が聡美たちに向き直る。
「聡美はそれが気に入らないわけだ」
「だって、あんまり馬鹿馬鹿しかったから」
 ぷっと頬を膨らませた聡美が微笑ましかったのか、父は笑いながらつづける。
「まあ、わかるけど。この町の歴史は、教えたことがあったね?」
「……うん」
「じゃあ、そこにヒントがあるかもしれない」
 大学講師らしい小気味のいいテンポで、父の解説は進んだ。
 昔、とても大きな戦争があったこと。世界中を巻き込んだその戦争のお陰で、日本中が異常な活気と狂気につつまれたこと。
 戦争が泥沼の状態になったころ、この一帯にはたくさんの工場ができたそうだ。軍用トラックや戦闘機の部品を量産する無数の工場には、全国から労働力として人が集まってきたという。労働力や資材の運搬のため、線路が引き込まれ駅ができる。工員とその家族の居住区ができ、寮棟がつぎつぎと建設される。
 もともと荒れ野や田畑ばかりだったこの土地は、そうして市になった。
「といっても、点在してるいくつもの村を、無理やり合併させたんだけどね。そういうことが、当時の日本では普通に行われてた」
「それで、それでどうなったの!」
 無邪気に催促するのは、身を乗り出したカヨちゃんだ。聡美は微妙にずれてゆく会話に痺れをきらしたが、それを見透かしたように父が核心をつく。
「だから、都市伝説なんかも根強いんだな」
「……え?」
 いきなり結論を提示され、聡美は仰天した。一足飛びでいきなり結論に飛ばれると、人間はとたんに引き込まれるものだ。気がつくと聡美も、カヨちゃんとおなじように身を乗り出して話に耳を傾けていた。
「だってそうだろ? 住民が増えれば、より多くの物が必要になる。食べ物だって、着る物だって、それに娯楽施設だって」
「うん……」
「そうなると、お店ができて映画館ができて、病院なんかもできる。工場で働く人たちだけじゃなく、その人たちを相手に商売をする人が全国から集まってくるんだ。……ここまでは、言ってることがわかったかな?」
「……えっと、どうにか」
「よし。じゃあ、ここからが本題だ」
 満足そうに頷いて、父は自慢げに人差し指を立てた。話に興が乗ってくると、いつもやってみせる得意のポーズだった。
「いろんな土地から人が集まれば、自然といろんな文化も集まってくる。さて、聡美はどうしてだと思う?」
「……文化っていうのは、人の営みそのものだから」
「そう、よく覚えてたね。特に市の中心であるこの町はターミナルの役割も果たしてたから、生まれも育ちも違う人があふれ返って、ごった煮のような文化ができた」
「…………」
「やがて戦争が終わって工廠が解体されると、工場跡に企業や大学が入って、さらにその色合いが濃くなってゆく。工員の寮棟は公団に生まれ変わって、素性が異なるもの同士の情報共有……っていうと大げさかな? でもまぁ、そういう習慣が必須になった。そこで重要になってくる同期ツールが、噂話。どこそこで特売がとか、あそこの病院は腕がいいとか、そういう有用なものからデマや流言飛語にいたるまでね。人間の潜在的な恐怖や欲求を寓話化した、都市伝説もそのひとつだ。そんな歴史から、この町には〝噂が根づきやすい土壌〟というのがあって――」
 夢中になって話しつづける父に、「あぁ、またか……」と聡美は苦笑いした。
 身ぶり手ぶりをまじえ持論を展開する父は、いつの間にか当初の目的を忘れている。娘の疑問に答えるどころか、小学生にはとうてい理解できないような、小難しい言いまわしまで飛び出している始末だ。
 横目で盗み見ると、カヨちゃんもポカーンと口を開けていた。
 でも、これだっていつものこと。真面目で研究熱心な父は、頭もよくて面倒見はいいけれど、ちょっとマイペースなところがある。軽く肘でこづかれて隣をふり向くと、カヨちゃんも首を竦めていた。ふたりで顔を見合わせて、クスクス笑い合う。親友だったあのころの、人懐っこくてほがらかなカヨちゃんの笑顔。
 と――
「あなたの、そういう身勝手なところがもう限界なの!」
 そんな狂った母の声で、急に場面は暗転する。

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伝怪 04 

伝怪

(どこが、オモチャの町なものか)
 根こそぎの歯車が狂ったこの二年半を思い返し、聡美はきつく唇を噛みしめる。
 結局そんなものは、ただの幻想でしかなかった。どんなにうわべだけ整えてみても、町の本質も人間の本質も変わらない。ひと皮剥けば、ドロドロの自己愛と保身の塊でしかないことを、今の聡美なら知っている。
 その証拠にあれだけ優しかった母は、聡美が小六の時に不倫をした。
 相手はよりにもよって、カヨちゃんの父親だった。
「ごめんなさい、魔が刺しただけなの」
 母はさめざめと泣きながら、狼狽する父に足に縋りついた。泣き落としが通用しないとわかると、今度は豹変して父と聡美をなじり飛ばした。女として見られないつらさが、母としか扱われない切なさが、あなたたちにわかるのか――と。
 髪を振り乱し唾を飛ばしてわめくその姿は、ひたすら気持ちがわるかった。
 そこにはもう、天然ぎみのほがらかな母の顔はなく、甲斐甲斐しく夫の世話をやく妻の顔もなかった。あったのは、どこまでも自分だけを主張する女の顔。魔物に憑かれたように醜く歪んだ、無様で剥き出しな人間の顔だった。
(この町にしたって、そうだ……)
 身勝手な母が聡美と父を捨てて消えたころ、事件に飢えた噂好きの住民たちも嬉々として本性をあらわにした。
 団地組だの、金持ち組だの、もともと些末な連帯意識でより合っている土地柄だ。「こいつは叩いて構わないよ」と言われれば、気さくで面倒見のいい隣人の仮面をほうり捨てるのに、数瞬の躊躇いさえ見せはしなかった。
 ましてこれは、都市伝説の怪人みたいな戯言ではない。
 自分も他人事では――と大手をふって糾弾できる、身近に起こったエンターテインメントなのだ。下世話なゴシップは、またたく間に広まった。マンモス団地一帯はもちろんのこと、小学校の保護者たちにいたるまで。
「いっつも物欲しそうな顔して、前から気にはなってたのよ」
「それにしたって、子供の同級生の親と……ねぇ?」
「しかも、おなじ団地に住んでたんでしょう?」
 その時すでに、カヨちゃんは母親に連れられて町から引っ越していた。あの父親がどうなったかは知らないけれど、去り際のカヨちゃんは無言で聡美を睨みつけた。ありったけの呪いを籠めたあのまなざしを、聡美は今でも忘れない。そうして本来の標的を見失った風評の矛先は、しだいに残された父と聡美に向かっていった。
 妻に浮気をさせた、甲斐性のない夫。
 不貞な母から産まれた、インバイの血を引く娘。
 大っぴらにこそ伝えないだろうが、コソコソささやく親の会話を子供たちだって聞いている。〝さーちゃん〟だったクラスでの呼び名は、すぐに〝市ノ瀬さん〟になり、間を置かず話しかけてくる級友自体いなくなった。さすがに中学に上がれば騒ぎも風化したけれど、一度貼られたレッテルは簡単には剥がれなかった。中一の終わりには援助交際の疑惑まで流されたし、今でもサカリのついた一部の劣等生からあけすけな視線を向けられることもある。これが聡美を取りまく現状だ。もっとも、そんな猿のような男子たちにとってすら、〝やっかいな腫れモノ〟との接触は憚られるものらしいのだが。
「しょせん、現実なんて……」
 その程度だと呟きかけ、聡美はこめかみに手をそえる。
 つまらないことを考えたせいか、ふたたび〝あの頭痛〟がぶり返していた。
 本当に、どうしてしまったのだろう? 今日の自分は、やっぱりどこかが変だ。こんな境遇なんて、とっくの昔に受け入れているはずなのに。父がそう決めた以上、この町でやっていくと決めていたはずなのに。
(だって、わたしは――)
 なにしろ聡美は、ただの中学生なのだから。
 大人を黙らせる権力も、子供を味方につける人望も、力ずくで従わせる強さもありはしないのだ。みんな消してしまいたいと思うこともあるけれど、そんなこともできるわけがない。自分ではない〝他のなにか〟にでもなれるなら話は別だろうが。
 だから、早く家に帰ろう。
 父の作った夕飯を食べ、嫌なことはすべて忘れてしまおう。
 朦朧とする意識の中、ジンジンと渋る頭をふって歩道橋に目を凝らす。コの字型に上る階段の片隅には、すでにぼんやりと闇が落ちていた。
 このまま県道を向こう側に渡りきり、私道とまじわる路地を左手へ。団地の敷地内に入ってさえしまえば、公園の脇をすり抜けて最初にあるのが八号棟だ。人目を避けて三階までたどり着けば、それでようやく息がつける。
 聡美を問題児扱いする教師の目だって、晒しモノにする女子の目だって、いやらしい男子の目だって、そこまでは届かない。
 そう決心して踏み出した瞬間、ズクリと子宮が痛んだ。聡美は眉をよせ、下腹を押さえる。制服のスカートの奥から、熟した粘液と体臭の混じった、腐った香水のような臭いが立ち昇った。いつもよりだいぶ早いが、それは生理の予兆だった。聡美が女であることの証。母とおなじ、雌である烙印。
 なるほど、と聡美は納得する。鬱陶しい頭痛も、安定しない情緒も、これが原因だったのかもしれない。だとすれば、なおさら急がなければ。出血が始まって、制服を汚しては面倒だ。けれどその思いとは裏腹に、聡美の足取りはいっそう鈍くなる。
 たとえ家に帰っても、今日も父が〝まとも〟とは限らない。
 母に捨てられてから、ゆるゆると崩壊してゆく父……誰よりも家族を愛し、またそれを拠りどころにしてきた父……そんな父が、この排卵の臭いを嗅ぎ取ったらどうなるのだろう? もしかすると今夜も、あの現実逃避の儀式が待っているかもしれない。急に込み上げる不安が、階段を踏みしめる足を鉛のように重くした。すると記憶の奥底から、得体のしれない掠れた声がささやいてくる。
「なぁ……トンカラトン、って言ってみな?」
 ギクリとした聡美が我に返るのと、不意に木枯らしが吹きつけたのは、ほとんど同時のタイミングだった。

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伝怪 03 

伝怪

 ホームルームが終わると、生徒たちは好き勝手に各々の場所へと散ってゆく。「カッタりぃ、カッタりぃ」を連呼しながら部活へ向かうもの。「どこそこに気になる店を見つけたから」と寄り道のグループを集っているもの。
 聡美はそそくさと鞄を抱え、喧騒から逃げるように教室をあとにする。
 もうすっかり馴染んでしまった、これも日常の光景だ。
 無秩序に廊下を行きかうジャージや制服にまぎれ、階段を下って昇降口へ。そのまま校門を出て急な坂道を下りきれば、校舎のある高台から迷路のような住宅街に入る。あとは見通しのわるい路地の角をひとつふたつ折れれば、もう聡美が住む二十数棟建てのマンモス団地までは目と鼻の先だ。
 急がなければ、きっと父は今日も早く帰ってくる。
 そして聡美のために、夕飯の支度をするだろう。それを必ずふたりで囲むのが、母が家を出てからの父と聡美の約束になっていた。だから聡美も、それまでには戻らなくてはならない。でないと、また家族が壊れてしまう。
(だけど……)
 この日の聡美の足は、県道をまたぐ歩道橋を渡るのを躊躇っていた。
 学校で妙なことを思い出したせいだろうか? 暮れかけた冬の陽に鈍く紅く染まる、見慣れた白壁の群れを対岸に眺めていると、脳内にすぎた日の出来事がつらつらと蘇ってくる。家族も友達も揃っていた、そう思い込んでいた、あの日々のことが。
 ――公団を軸にした団地の町。
 聡美がこの町に越してきたのは、小学校二年の春休み。例の怪人の噂を聞くはめになった、三年進級をひかえた時期のことだった。
 ちょうど東京との県境にあたるこの地域は、都心にもほど近く。そのわりに低い賃貸相場のため、ベットタウンとして人気が高い。郊外まで足を伸ばせば、まだまだ余剰に土地も残っているらしく、大学の新設学部や企業施設の誘致も多かった。その相乗効果もあってか人口も右肩上がりに増えていて、近年改めて注目を集めているという。
 それが聡美の両親の目を引いたのだ。
 父の仕事の都合、というのが引っ越しの主な理由ではあったが、それまで暮らしていた六畳と四畳半の都内のアパートでは、聡美の成長にともなって手狭になってきたからというのもある。もちろん父と母と聡美、三人揃っての移住だった。
「ごらん、聡美」
 道中の車内。父に言われて見上げた場景は、今でも鮮明に思い出せる。
 県道に覆い被さるように迫ってくる、統一デザインの棟の波。駅前を起点とするドミノのように規則正しい配列は、そのまま一区画ほどつづき、さらに棟のデザインだけを変えて、同様の景色が何ブロックも窓の外を流れゆく。
「わぁ――」
 ある種圧倒的なその景観に、聡美は思わず声を漏らしたものだった。
 都会育ちの聡美にしてみれば、もっと高層のビルも近代建築も慣れっこだったが、いかにも〝町ごと設計した〟というこの町の風情はオモチャやゲームの世界が現実に出現したようでもあり、幼い目には新鮮な印象で映ったから。
「ここはね、団地から生まれた町なんだ」
「団地から、町が?」
 運転席から得意げに解説する父に、オウム返しすると、
「今日から住むお家も、その内のひとつなの」
 そう助手席の母が便乗する。
「きっと、お友達もたくさんできちゃうわよ? 楽しみねぇ」
 どこか惚けた笑顔を浮かべる母に、聡美も無邪気にはしゃいでみせた。少し型の遅れたファミリーワゴンの車内は、その時たしかに幸福があふれていたと思う。実際、これからこの〝オモチャの町〟で送る新生活に聡美も胸をときめかせていたし、父と母もそれを少しも疑っていなかったろう。
 そんな期待を裏づけるように、母の予言もすぐに的中する。
 カヨちゃんに出会ったのは、引っ越しの翌日だった。荷解きを始めた両親の邪魔をしないよう、聡美が敷地内の公園で遊んでいた時のことだ。
「……あなた、新しく越してきたお家の子?」
「うん……えっと、そこの棟の三階に」
「そっかそっか、どうりで見かけない子だな――って、思ったんだよね」
 かがみ込んでシロツメクサを摘んでいた聡美は、いきなり現れた女の子を茫然と見上げた。そんな聡美の様子もお構いなく、女の子はポンポンと質問を投げつけてきた。それがカヨちゃんとの最初の会話だった。
 矢つぎ早に突きつけられる質問に、聡美はしどろもどろに答えた。
 父は大学講師で、春からかけもつ職場が増えたこと。前のアパートは、東京の下町にあったこと。専業主婦の母は優しいが天然ぎみで、驚くほど世間知らずなこと。そのひとつひとつを、カヨちゃんは興味深げに聞いていた。人懐っこそうな目を見開き、うんうんと都度に大きく頷きながら。
 その日から自然と、聡美はカヨちゃんと行動を共にするようになった。
 聡美の家は、八号棟の三〇二。カヨちゃんの家は上の階の四〇一。おなじ団地に住むおない年の子供な以上、当然、聡美もカヨちゃんとおなじ小学校に転入した。さらに偶然はつづいて、運よくクラスもおなじになった。
 カヨちゃんは好奇心旺盛な物怖じしない子で、どちらかというと引っ込み思案だった当時の聡美とも不思議とウマが合った。ふたりがお互いを親友と呼ぶようになるまで、たいして時間もかからなかった。
 それからの四年間は、本当にめまぐるしくて充実した毎日だった。
 運動会には、母がお弁当を作って応援にきてくれた。授業参観は、仕事の都合をつけた父が照れくさそうに見学してくれた。
 週末には、住民総出で団地の清掃をすることもあった。
 聡美もカヨちゃんと一緒に、せっせとゴミ拾いをしたものだ。そんな時、大人たちは決まって〝金持ち組〟の噂話をした。「えらそうにしてても、本物の金持ちは駅まわりの旧家だけさ」「新興住宅の連中は家を買った分、金はないよ」「実際は〝団地組〟の方が積み立てしてるから、お金を持ってるの」――。
 団地に住む団地組と、持ち家に住む金持ち組。地方特有のローカルルールで張り合ってはいたけれど、そんな雑多な空気も含めて聡美はこの町が気に入っていた。むしろ小さなコミュニティで結束する風潮に、奇妙な居心地のよさすら覚えていた。
 聡美が小五の時には、母もパートに出ることになった。カヨちゃんの父親がフロアマネージャーを任されていた、駅前スーパーの食鮮コーナーでだ。
 母はパートから戻ると、いつもウキウキと夕飯の支度をした。
 その後姿を眺めながら、聡美はキッチンのテーブルで宿題や予習をした。
 ほっとする匂いが鍋から漂ってくるころになると、計ったように父が帰ってくる。聡美はリビングに移動して、困り笑いの父に勉強の助っ人を頼む。そんな様子をにこにこ眺めながら、「もうご飯ですよ」と母が声をかける。そして三人揃って夕餉の食卓を囲み、一日の報告をするのが聡美たち家族の習慣だった。今日のように寒い冬の日のメニューは、父の好物のおでんが多かった。
 取り立てて恵まれていたわけではなかったけれど、まるでホームドラマに出てくるようなあたたかい家庭がそこにはあった。そんな時には、改めて思ったものだ。「わたしはこのオモチャの町が大好きだ――」、と。でも……

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