我と我が身と彼のものと。

常在辞世。渋枯れ好みの“詫びオタク”…なんとなく更新中。

伝怪 14 

伝怪

 老人の言葉は、ゆっくりと聡美の隅々に広がっていった。
 こころだけではなく、体中全体に。耳から脳へ。脳から心臓へ。心臓から胸、肩、手足へと、赤黒い血液と一緒に沁み通ってゆく。
 そうか。そうなのか。よかったのだ、あれで。危うく聡美も、図鑑の女房とおなじように決めつけてしまうところだった。捕えにきたのではなく、救いに……だから母もカヨちゃんも、任せてしまえと言ったのだ。
 夢うつつのまま考えながら、ガラスに映った老人を見上げる。
 老人は、うんうんとにこやかに頷いている。
 静かに目を閉じ、これまでのことを思い返す。聡美を捨てて去った母も、聡美に呪いの視線を投げつけたカヨちゃんも、理不尽な風評で聡美を苦しめた連中も、聡美を記号扱いして穢した父も、そして――そんな扱いを、甘んじて受け入れた弱い自分も。すべてが馬鹿馬鹿しくなって、自然と笑みがこぼれた。ああ、本当に晴れやかな気分だ。こんなに爽快なのは、何年ぶりだろう。
 こころに立ち込めた霧が、一斉に退いてゆく。
 その向こうの暗闇から、包帯巻きの腕が手まねきをする。
 と、そこで――
「……あの、すみません」
 背後から急に、声がかかった。なにかに怯えたような、少し震えた女性の声。
 はい、と軽やかに答えると、聡美は目を開く。夜闇を背負った窓には、受付にいた女性職員が映っていた。いつもの愛想のいい笑顔ではなく、不気味なものを見るような青褪めた顔で、やや遠巻きにガラスの中の聡美を覗き込んでいる。
「ええっと、なにか……?」
「いえ、その……」
 聡美がにっこり微笑むと、女性職員は口籠った。
 閲覧席の方からは、ひそひそささやき合う声が聞こえてくる。
 そういえば、お爺さんは?
 さっきまでそこに立って、聡美と話をしていたのに。
 不思議に思った聡美が振り返ると、ひっ、と声を殺して女性職員は身を引いた。構わず辺りを見まわすが、やはり老人は見当たらない。職員に驚いて、いなくなってしまったのだろうか? うっかりして、名前を聞くのを忘れてしまった……つらつらそんなことを考えていると、表情を凍らせた女性職員から、たどたどしく警告の言葉が漏れた。やっと絞り出したような、引きつった声だった。
「他の方のご迷惑になるので……館内ではお静かに」
 それだけ言い残して、女性職員は逃げるように去ってゆく。
 聡美はきょとんとしたまま、瞬きをくり返す。
 しばらくじっくり考えて、ここが図書館だということを思い出した。いけない。話に夢中になって、とんでもないマナー違反をしてしまった。なるほど、それで老人は職員の姿を見て慌てて逃げてしまったのか。
 勝手に納得して、のろのろと閲覧席を見渡してみる。
 聡美と目が合いかけた利用者たちが、慌てて顔を背けた。
 まあ、やってしまったことは仕方ない。聡美はぺこりと閲覧席に頭を下げると、鞄を抱えて開架図書をあとにする。
「……まったく、ひとり言なんて」
 その背中には女子大生風の呟きも届いていたが、特に気にはならなかった。今さら他人の目なんてどうでもいい。誰がなにを言おうと、聡美の目的は果たされた。あの老人のお陰で、こんなに気分が軽くなったのだから。

 住宅街の停留所にバスが着くころには、辺りは真っ暗になっていた。
 どこか弾んだこころ持ちで、聡美は顔を上げてみる。
 寒々と澄み渡った空には、月も星もない。家々の明かりをつつみ込む、漆黒の夜。魔物が自由に跋扈していたころのような、黒々した真の闇……ポツポツと街灯が歩道を照らしていても、それはまやかしの灯だ。
 闇は人の外側だけでなく、内側にもある。
 聡美はもう、その闇に恐れを感じることはない。
 まだ浮遊感の残る足取りで、歩道橋の階段を踏みしめた。眼下に横たわる県道も、渋滞が捌けて闇に沈み込んでいる。時折行きかう車のヘッドライトだけが、かすかに文明の息吹を感じさせるだけだった。
 ――なんて、静かな夜なんだろう。
 県道とまじわるわき道をたどりながら、聡美はそう思った。
 遊び歩く子供を叱る声。やたらボリューム上げたテレビの音。いつもなら耳に障る団地の生活音も、なぜか今夜は聞こえない。
 まるですべてが、聡美のためにお膳立てしてくれているようだった。思わず気分が高揚して、頬が赤らむのがわかった。知らずに早足になって、家へとつづく私道を目指していた。荒くなった息が、白く凍って闇の中に散ってゆく。
 ああ、いい感じだ。
 これならきっと、行き会うことができる。
 そんな予感がして、無我夢中で歩いた。汗ばみ始めた肌に、ブラウスが纏わりつく。やたら体が火照ってきて、リボンタイを解いて投げ捨てた。もう、鞄だっていらない。こんなものは、あの植え込みの中に放り込んでしまえばいい。だって聡美は、今から聡美ではなくなるのだから。そうして全部が終わったら、次は自分のように苦しむ人に救いの手をのべる存在になれるのだ。
 聡美のために、母がそうしてくれたように。
 聡美のために、カヨちゃんがそうしてくれたように。
 やがて交差路が見えてくると、キィキィと錆びた金属音か響いてくる。
 背後から、奇妙な歌声が聞こえてくる。
 トン、トン、トンカラ……トン。
 ――トン、トン、トンカラトン……。
 胸をときめかせながら、左手の包帯を解いた。今度こそおまじないで、彼の邪魔をしないように。その間も、決して歩調は緩めたりしない。あと五メートル……三メートル……もうすぐだ。もうすぐまた彼に会える。すると突然、
「……トンカラトンと、言え」
 耳元で声がした。
 聡美は開放の歓喜に身を震わせる。
 ふり向いた視線の先には、ただ彼がいた。錆だらけの自転車にまたがって、じっとまっ赤な目で、聡美を見つめていた。
 血濡れた包帯で巻きしめた、痩せぎすの体。右手にふり上げた、白々と光る日本刀。全身がどこか歪んで見えるのは、聡美のつたない記憶のせいだろう。父の描きなぐったイラストのまま、聡美の望んだ姿のまま、彼は現象としてそこにいた。
 けれど、聡美は彼の要求には応えない。
 応えてしまえば、彼は去ってしまうルールだから。
「ありがとう……」
 小さくそう、呟いてみる。
 現象である彼は、たんたんと役目を遂行する。
 頭上で閃いた白刃が、まだ薄い聡美の胸めがけて振り下ろされた。
 聡美は無言で微笑むと、両手を広げてそれを受け止めた。
 そして聡美は、彼になった。
 彼になった聡美も、役目を果たさなければならない。
 私道から団地の敷地に入り、公園をすり抜けて八号棟へ。薄暗い階段を三回折れた先には、ペンキの剥げかけた鉄扉がある。
 音を立てないよう注意して、ドアノブをまわす。
 ダイニングからは、夕食の支度をする音が聞こえている。キッチンでは、鼻歌まじりの男が包丁をふるっていた。聡美だった彼はスカートの隠しポケットを探ると、かつてそうしたように男の背後に近づいてゆく。
 その手のひらの中で、カチカチとカッターの刃が音を立てた。

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伝怪 13 

伝怪

「まあ、見た目は別として、話の造形がって意味でねぇ。通り掛けの魔にヤられると、あてられて人が変わってしまう。それこそ〝別のなにものか〟にでもなったみたいに……説教くさいところを抜かせば、本当にそっくりだ。
 と、そこで先般のお話です。
 ……おや。
 なんのことかって? いやですね。役割ですよ、伝怪の役割。救済のための、って、あれですあれ。そうそう、妖怪と伝怪のおなじ側面――ってやつですなぁ。よかった、忘れられてなくて。それじゃあ、ずいぶんと横道にそれてしまいましたが。このトンカラトンと通り物を例にして、ご説明しましょうか。
 まずは、通り物。
 お嬢さんもご承知のように、こっちの方は妖怪だ。妖怪である以上、なんらかの意味がある。この話だとさしずめ、不可解なことをした人間の〝行動原理の説明〟。といったところになりましょうか。今なら〝発達障害〟だの〝ストレス性ナントカ〟だの、いろいろと病名もつくんでしょうが、あいにく精神医学なんて便利なモンは、この時代にはまだなかった。あれが確立されたのは、十九世紀の終わりころですからねぇ。
 世の中には、こんなおっかないものがいるよ。
 だからつねに、気を静めて注意しなさい。
 お経なんてのはまぁ、たいがいの魑魅魍魎には効きますが……それでもちゃんと、おまじないまで用意してある。じつに懇切丁寧な対策と方針だ。そんな風に妖怪は、人間のために悪役を買って出てくれていた。〝人間が勝手に狂った〟のに、それがあたかも『自分たちのせい』だと言わんばかりにですよ。人間っていうのは、昔からそうして〝自分はわるくない〟と言い張るモンです。これはもう、立派な救済措置ですなぁ。
 ――ところで。
 お嬢さんは、どう思います? 見ていた女房と狂った細君。この話で救われたのは、いったいどっちなんでしょう。
 いえいえ、難しく考える必要はありません。直感で答えてもらって結構ですよ。……ああ、はい。それなら〝魔に刺される〟のを逃れた、女房の方ですって? 狂った細君の方は、あてられて罪を犯したから。なるほど、そりゃそうですな。教訓を旨とする妖怪譚ですから、それはまっとうなお答えだ。
 でもね、私はこんな風にも思うんですよ。
 難こそ逃れたものの、女房も通り物には行き会っている。
 ということは、本当は女房にも〝狂ってしまいたい理由〟ってのが、こころのどこかにあったんじゃないかってね。お嬢さんも知っての通り、煎じ詰めれば妖怪なんてのはただの概念だ。でなけりゃ、最初から姿が見えるいわれもありませんから。
 そうなるともしかして、救われたのは狂った細君の方なんじゃ――そんな気も、してきたりしませんか?
 あはは、ええ、ええ……当然これは、私の勝手な言い分です。
 どんなに文献をひっくり返したところで、そんな話はこれっぽっちも出てきません。だけどね、私はやっぱりそう思ってしまうんですよ。女房にも細君にも、おなじように狂ってしまいほどの鬱屈があった。ものの話ではこの女房、借家住まいをしている理由は『火事で焼き出されたから』なんて言われてますしねぇ。
 その上、亭主は女房をほったらかし。
 これじゃあ、ストレスだって堪り放題だ。
 人間のこころなんてのは、元来とっても脆いものです。
 とんだ不幸に見舞われたあげく、銭もなければ救いもない。そんな欝々した思いを抱えながら、なんの気力もなくぼぅっと庭を眺めて亭主を待つ。どんな目に合ったって、なんの保証もない時代だ。一寸先は闇みたいなものでしょう。帰りを待つうち、いっそのこと亭主を道連れに……なんて不穏なことも、女房の頭をよぎったかもしれない。
 で、そんな時ですよ。
 荒れ放題の庭先に、不気味な老爺が現れる。
 もちろんこれは、女房のこころの闇の投影です。現実にそこに立っていたかもしれないし、立っていなかったのかもしれない。さぞかし女房は、驚いたことでしょう。もともと品行方正で生真面目な女房は、はっとして我に返る。きっとあれはわるいものだと決めつけて、対策を練る。ここでいうのは、お経というおまじないですな。
 気を静めて、というよりは。
 そうすることで、自然と〝気が静まった〟んでしょう。
 目を開くと、老爺の姿は消えていた。当たり前です。これは女房の気の迷い……弱ったこころが見せた、幻覚なんですから。
 それでも老爺――通り物は、女房のこころのうつし鏡です。
 女房が望んだからこそ、そこに姿を現した。
 たしかに、気丈に振舞ったお陰で、女房は罪を犯さず済んだかもしれない。教科書に載せるようなお話なら、これでめでたしめでたしだ……とはいえ、このあと女房はどんな人生を歩んだんですかねぇ。
 亭主は真面目に働いて、暮らしは立ち直ったんでしょうか?
 女房の抱えた闇は、無事に晴らせたんでしょうか?
 ぼっとすると、素直に妖怪に身を任せて狂っていた方が――なんてのは、まあ、詭弁ですがね。でも、そういう〝裏の解釈〟も、妖怪にはあるんですよ。これだって、ちゃんとした救済だ。狂った細君にしても、細君にヤられた人にしても、それはもう『憑りついた魔物』のせい。それで言い訳も諦めもつく。偉い学者さんにすればとんでもない冒涜でしょうが、私なんかはそう思いますよ。
 妖怪は現象ですから。
 現象は、善悪を気にしません。
 被害者も加害者も、傍観者だって均等に救うんです。
 ところが時代が流れて、世の中は文明の灯りに照らされた。おっと、失礼。これは万物の説明が、科学や医学でされるようになった……という意味ですな。
 それで、妖怪はお役御免です。よく『妖怪は闇の住人』なんていわれますが、あの闇は概念上の〝闇〟ということでもあるんですな。とにかく、そんなわけで妖怪は世の中から駆逐されて、ただの偶像になった。神秘性も威厳もなくして、キャラクターに。……それでも人間のこころからは、決して闇は祓うことができない。そこで出番になるのが、神性も畏怖も取り除いた、新たな魔物……妖怪に取って代わった、伝怪。だいぶお待たせしましたが、今ここでお話しするなら。そう。
 怪人、トンカラトンです。
 ほほぉ、これはこれは。
 そんなに身を乗りだして聞いていただけるとなると、私としても話し甲斐があるってものだ。……うん? それはいいから、早く先を? ああ、すみません。ついつい、嬉しくなってしまいまして。といっても、先程ご説明したように、こいつは極端に情報量の少ない伝怪です――多分に、私個人の見解が混じるところはご容赦ください。
 ……では。
 まずはじめに注釈しておきますと、妖怪と違って伝怪というのは嘘っぱちだ。
 いやいや、そんなに怖い顔をしないでください。現象としてという意味ではなく、〝その寓話の前提条件として〟という意味合いでのことですよ。だって、そうでしょう? もう時代は科学全盛だ。どこにも〝得体のしれないもの〟が入る隙間なんてのは、本来ならあるはずありません。ですから、伝怪は『嘘だけどこういう話があるよ?』と、そうやって楽しむ娯楽です。くり返しになりますが、〝本来は〟ね。
 ただその分、非常に柔軟になった。
 妖怪なら〝裏の解釈〟としてしか仕込めなかった一面も、『デマである』ことを前提にすることで、受け手に直接選択させることができる。善だの悪だの、小難しい理屈を織り込む必要は、ハナっからなくなったんですな。
 トンカラトンは、夕暮れ時にただそこに現れる。
 斬られてしまえば、その人間はトンカラトンになってしまう。
 そこには理由も目的も、善悪だっていらない。
 伝怪だって、現象なんですから。
 でもひとつだけ言えるのは、やっぱりトンカラトンも〝その人が必要とした〟からやってくるんです。そして、その人に言い訳する機会を与えてくれる。『トンカラトンになったんだから、仕方がない』ってね……うしろ暗いこころの闇も、犯した罪も、全部全部、肩代わりしてくれるんですよ。
 たとえばそう、いつか女性に乱暴した芸能人なんてのがいましたが。
 取り調べで言ったそうじゃないですか、『襲う欲求は襲うことでしか満たされない』ってね。もちろん、そんな理屈は許されるはずもない。とてもじゃないが、まともな人間だったらこんな勝手なことは言えるものじゃない。
 けどね。
 だから救済はいりませんか?
 病院にいけば、そりゃあ適当な病名はつけてくれるでしょう。更生するためのプログラムも組んでくれるでしょうし、場合によっては薬だって処方してくれるかもしれない。それでも彼には、烙印は押されたままだ。罵られて生きるのは当然としても、医学や科学に任せておいてはどこにも逃げ道は作ってくれない。
 人間っていうのは、身勝手でこころが脆いものですからね。
 救済がなければ、またきっと壊れますよ。
 壊れてしまえば、何度でも被害者が生まれる。ならそこに、安全装置をつけてしまえばいい。『魔が刺したんだ』『だから自分はわるくない』っていう具合にね。
 ……ああ、いえ。別に乱暴を正当化してるわけじゃ。
 ただ救済のないところには、反省も贖罪もないんです。あるのは、限界まで追い詰められた〝開き直り〟だけでしょう。文明のお陰でうわべだけ綺麗になった世の中は、負い目のある人間を容赦なく糾弾しますから。
 ――自分たちは、当事者でもないクセにねぇ。
 ふむ、それならわかる気がすると……お嬢さんは、呑み込みが早いですなぁ。ますます将来が楽しみだ。とはいえね。そんな連中にしたって、いざ自分の身がとなればなにかに救いを求めようとするモンです。
 科学じゃ説明できない、得体のしれないなにか……。
 病院じゃ治してくれない、わけのわからないなにか……。
 ひょっとすると、そのせいかもしれません。
 神も仏も、妖怪すら廃れた世の中に……いまだに根強く、伝怪なんてものが生き残っているのは。まあなんですな。名前を変えようが形を変えようが、人間のこころの闇はいつの時代も変わらない。
 トンカラトンも、通り物も、だからきっと起源は一緒なんですよ。救われたい、助かりたい……いっそ、なにかのせいにして壊してしまいたい。
 とかくこの世は、生きづらいですから。
 そういう弱いこころを掬い取る、救済措置なんでしょう……はい」

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伝怪 12 

伝怪

 それでも根気よく聡美の発言を待っていた老人は、ははっ、と愉快そうに笑い、コツリと杖を鳴らして一歩分だけ聡美に近づいた。
「そこまでとは言いませんが、詳しいですよ。たぶん」
「……じゃあ」
 詰まりかけた喉から無理やり押し出し、わらにも縋る思いで訊ねてみる。
 どうしても口にできなかった、あの名前を。
「知ってますか? 怪人トンカラトン、って……」
 その時、一瞬だけ老人がニタリと笑ったように見えたのは、気のせいだろうか? 間を置かず「ああ、ああ」と相槌を打った老人は、大きく二度三度頷きながら、あっけらかんとした口調でこう言った。
「知ってますよ。トン、トン、トンカラトン……って、やつでしょう? そうですか、またマイナーな伝怪を。その図鑑にも、載ってなかったのでは」
「……えっと、はい」
 再確認こそしていなかったが、聡美はすぐに頷いた。
 老人ほどでないかもしれないけれど、父もこの図鑑は熟読しているはず。その父が知らなかったのだから、当然ここには〝トンカラトン〟の項目はないのだろう。もとから承知の上だったが、つい老人の口調がおかしくて、聡美の口から本当にひさしぶりにくすりと笑いが漏れた。この老人と話していると、なぜだか気分が晴れる。父のことも幻覚のことも気にならなくなってくる。もう少しだけ老人と話したくなった聡美は、それで決心して図鑑をカウンターに置く。
 今度はしっかり老人に向き直ると、軽く深呼吸してからきり出した。
「よかったら、教えてもらえませんか。その伝怪のこと」
 老人の頬が、嬉しそうに緩んだ。
「ええ、構いませんよ。お嬢さんは、どこまでご存知です?」
 快い老人の返答に、聡美は小さく息をついた。さっそく椅子を薦めると、老人はまぁまぁとそれを辞した。少し戸惑ったが、老人がそれでいいのなら仕方がない。対面で老人を見上げる形で、聡美はぽつぽつと話を始めた。
 わずらわしいことを嫌う自分が、なぜそんな気になったかは聡美にもわからない。
 ただ今は、そうしなければならない気もしていた。
 老人の人柄がそうさせたのかもしれないし、本当は聡美が〝まともな人間との会話〟に飢えていたのかもしれない。
 なんにせよ二年半――自分を殺してきた鬱憤を晴らすように、聡美は夢中になって馬鹿馬鹿しい伝怪の話をした。途中で女子大生風の咳払いが何度か聞こえたが、そんなものもどうでもよかった。気がつくとなにかに憑りつかれたように、聡美はひと通りの知識を老人に披露していた。
 まず、トンカラトンは全身に包帯を巻いている。
 日本刀を持って、突然現れる。
 トン、トン、トンカラトン……と歌いながら自転車でやってくる。
 出会うといきなり、「トンカラトンと言え」と言ってくる。
 注文通り「トンカラトン」と言えば、なにもしないでそのまま去ってゆく。
 言わないと、持っている日本刀で斬りつけられる。
 要求される前に、「トンカラトン」と呼んでも斬りつけられる。
 斬られると、自分も「トンカラトン」になってしまう。
 そして、左手に包帯を巻いておくと……
 そこまで一気に捲し立てて、聡美は大きく息を吸った。知らぬ間に、身ぶり手ぶりまでつけて喋っていた。そのくらい、老人と話をするのは楽しかった。自分がまだこんなに饒舌に話せるのかと、少し驚きもした。だから、
「なるほど、それで――」
 そう呟いた老人に左手を指さされた時、心底どきりとした。
 いきなり冷水を浴びせられた気がして、聡美は慌ててその左手を背に隠す。
「ち、違うんです。これは、その……」
 隠した左手には、解けかけた包帯がそのまま巻かれていた。
 言われてみればたしかに、これは伝怪除けのおまじないだ。だから歩道橋で、あいつはこの左手を見て……だけど実際は違う。これは聡美と父の爛れた関係の証。それを老人に見透かされた気がして、聡美は目を伏せた。
 老人はただ、うんうんと頷いて、ことさら陽気に話をもとに戻した。
「まあ、それは冗談として。だいたいそんなもんです。もともと民話や伝承。正式な、というと語弊がありますが……まだそういう形で残されていない伝怪は、あやふやなものが多い。中でもこのトンカラトンってやつは、特に情報が少ない」
「……そうなん、ですか?」
「ええ、ええ、そうなんですよ」
 あたり障りない対応で様子を窺うと、老人は何事もなかったように小首を傾げる。聡美の適当な相槌にも、満面の笑みで答えてくれた。その反応で、聡美は胸を撫で下ろす。萎みかけた気持ちが、また息を吹き返した。勘づいているのかいないのか、老人は無用な詮索をするつもりはないらしい。
 そのこころ遣いが、また嬉しかった。
 聡美はますます、この老人との会話に引き込まれていった。
「補足するとすれば、〝助けてやるとお礼に包帯をくれる〟だの〝おまじないの包帯はそれじゃなきゃいけない〟だの……そうそう、〝たまに集団で現れる〟なんて尾ヒレもありましたが、概ねお嬢さんのお話が全部ですよ」
「はぁ……」
「ふむ。その反応からすると、がっかりさせてしまいましたかな? でもね。伝怪が面白いのは、そこからまた〝新しい噂話〟が産まれるところです。たとえば……ええっと、トイレの花子さんはわかりますか?」
「はい、それは有名ですから」
「よかった。その花子さんですが、これは伝怪としてはかなり古いものになります。雛形になった〝三番目の花子さん〟が一九五〇年ごろの出自ですから、伝怪の元祖とされている赤マントとも同級生だ。話自体は――」
「それも知ってます。〝トイレの三番目のドアを〟ってやつ」
「それです、それです。なら端折るとして――ところがこれ。全国に広まると、いろんなパターンができると共に、『もとになった事件』なんて噂まで出まわってくる。まあ実際にそれらしき事件もあるにはあるんですが……不気味なもんで、伝播するうち『もとになった事件』自体のバリエーションが増えていくんですな。中には〝伝怪の設定そのままの事件〟なんてものまで出てくる。花子さんのもとになった、女の子の亡くなり方。亡くなられた舞台と状況。女の子の名前が違うってこと以外、どれを取ってもそっくりだ。私も気になりなしてねぇ。ほうぼう歩いて、調べてみた」
「じゃあ、伝怪もやっぱり妖怪みたいに……」
 思わず聡美が身を乗り出すと、さて、と声をひそめながら老人も身を屈めた。
 落語かなにかでも聴いているような、小気味のいいテンポ。巧み、というか。老人の話し方は、聡美のツボをついて飽きさせなかった。本筋から外れるようで、核心をついているようでもある。まるで、昔の父と話してるような……。
 そんな錯覚も手伝い、長々と溜める老人に痺れをきらして声をかける。
「それで、その事件は……」
 すると老人は、ぴしゃりと額を叩いて言った。
「デマでした!」
 タイミングも絶妙だったが、くしゃりと破顔した老人につられて、聡美はクスクスと笑っていた。老人は満足そうに頷くと、「そうそう、女の子は笑顔じゃないと」と言って杖を鳴らした。その音がなにかの合図のように、聡美のこころに沁み込んできた。
 本当に清々しかった。こんなに楽しい時間は、どれくらいぶりだろう? こころの底から思いながら、聡美はしばらく笑いつづけた。
 聡美が笑い終わるのを待って、老人は先をつづける。
「さんざん苦労して事件の詳細な地域を絞り込んでみれば、そんな事件の記録は警察にもない。どころか、その町内にそんな番地すらなかった。まったくの無駄足ですな。と、そうやって〝伝怪に真実味を出す〟ために、新たな設定として〝次の伝怪〟が産み落とされる。これはすでに完成された妖怪では、なかなか味わえない醍醐味です。民間伝承から神話性が失われた、都市伝説ならではのものでしょう」
「へえ……」
「まあ、その辺はその図鑑にも書いてあります」
 あとでじっくり読むといい。そうつけ足して、老人は悪戯小僧のように笑った。抑えめな照明の加減か、瞬間、老人の顔が暗く陰ったようにも見えた。
 それから老人は、ただし――と人差し指を立てる。
 はい、と背筋を伸ばし、聡美も聞く態勢を改めた。打って変わった老人の口調は、いよいよここから本題だよ? そう言っているようだった。緩急をつけられたことで、聡美はすっかり老人の調子に乗せられていた。
 コツコツと杖を二度鳴らして、老人の講義が再開した。
「それでも伝怪には、妖怪と変わらない側面もあると思うんですよ」
「……それは?」
「うぅん、上手く言葉にできませんが、救済のための役割。とでも言いましょうか? たしかに神話性は失われた……ただ失われたからこそ、妖怪より浮き彫りになった、人間の本性に関わるもの。たとえばそう、妖怪は畏怖や教訓の具象化だった。そこから解放されたからこその、剥き出しになった欲求の受け皿とでもいいますか……そんな役目が、伝怪にはあると思うんです」
 そうですなぁ、と言って老人はぽりぽりと額を掻く。
 しばらくそのまま考える間があって、今度は聡美もおとなしく待った。これはさっきのような溜めではないだろう。きっと。
 待っているとポンと額を打ち、老人はカウンターの図鑑をさす。
 返ってきたのは、予想外の答えだった。
「そうだ、お嬢さん。それの〝通り物〟の解説を開いてみてください。たぶん、五百ページ辺りに載っていたはずだ」
「……え?」
 初めは聞き間違いかと、聡美は自分の耳を疑った。ざわ、と首筋を撫でてゆくものがあった。「とおり、もの……?」そう老人に聞き直してみると、「そうです、通り物」と老人はこともなげに答えた。
「でも、それって妖怪の名前なんじゃ……」
「ほほぉ、通り物も知っている。これは、本当に将来有望だ」
「いえ、そういうことじゃなくて」
「まあまあ。変だと思われるでしょうが、説明はちゃんとしますから」
 その方が早いですし、と老人は促すが、聡美は躊躇せずにはいられなかった。
 通り物……これは、記憶に刻まれた呪いの一部だ。
 父に彫り込まれた、禍の文言だ。
 ついつい鈍る手に、老人の表情が訝しげに曇る。「どうしました?」と尋ねられ、聡美は返答に困って「ああ、いえ……」としか答えられなかった。もし今、このページを開いたら? それで、よくないものが開放されてしまったら?
 だとしても、もう向き合うしかないだろう。
 それに今なら、この老人もついている。
 ここまできたのならと覚悟を決め、聡美は老人に背を向けカウンターに向き直る。静かに深呼吸をして、ゆっくりと指定されたページの付近を探してみる。
 老人の言う通り、目的の解説は図鑑の真ん中辺りにあった。
 乱れた和服の女性と、杖をついた不気味な老爺のイラスト……白髪の老爺は、柄のない薄汚れた着物を羽織っている。遠い記憶のまま切り出された、得体のしれない浮世絵風の図。聡美は息を殺して、じっとそれに目を凝らす。
「まずは、読んでみてください」
「……はい」
 老人に勧められるまま、聡美は解説を読み進めていった。
 内容を掻い摘むと、次のようなものだった。
 時代は江戸。ある女房は、ぼんやりと借家の庭を眺めて亭主の帰りを待っていた。
 すると夕暮れ、いつの間にか庭先に、白髪の老爺が立っている。ニヤニヤ笑いながら長い杖に縋る、気味のわるい老爺だった。しかも季節は秋だというのに、着ているのは薄汚れた長襦袢一枚だ。顔も土気色で、とてもこの世のものとは思えない。
 女房が身構えると、つっと老爺が近づいてくる。
 とっさに女房は両眼を閉じ、うろ覚えのお経を唱えた。
 心を静めてお経を唱えつづけ、そっと目を開いてみると、すでにそこには老爺の姿はない。女房は、ほぅっとため息を落とす。
 ところが間もなく、数軒先の屋敷で騒ぎが起きた。聞けばその家の細君が、狂って刃傷沙汰に及んだそうだ。ぞっとした女房は、先刻の老爺の姿を思い出す。あれはきっと、よくないものだ。人に憑りつき狂わせる、通りすがりの魔物だ。
 ――通り物。通り悪魔。
 一説には、縋っているのは杖ではなく槍だともいう。こころの弱いものは、その槍で突かれるのだ。魔に刺されてしまうのだ。現代でいう『通り魔』の由来も、ここにあるのかもしれない。そう、解説は結ばれていた。
「……読み終わりましたか?」
 また絶妙のタイミングで、老人が聞いてくる。
 小さく頷き、聡美は図鑑を閉じた。
 目をつむり、今読んだ内容を反芻する。夕暮れ。魔物。魔に刺される……なにかが聡美の頭の中で、ぎしぎしと音を立てて繋がり始めた。また現実と妄想の境目が、曖昧になってゆく。それともさっきから、ずっと夢でも見ているのだろうか? ざらついたテレビ画面のような、ノイズだらけの映像。じょじょに焦点が定まると、唇を尖らせる小学三年の聡美の話を、父は興味深そうに聞いている。
「うぅん、こんな感じかな……?」
 聡美が差し出した色鉛筆を取って、父はすらすらと雑な絵を描き出した。
 包帯を全身に巻いた、気味わるい怪人の絵だ。
(……これはあの幻覚の)
 上手いのか下手なのか、勝手なアレンジを加えた父の想像図は、微妙にねじくれて歪んでしまっている。それが逆に、生理的な嫌悪を掻き立てた。聡美とカヨちゃんが学校で聞いたより、何倍も何十倍も……。
 すると今度は、耳の奥で母の声がした。
「ごめんなさい、魔が刺しただけなの」
 不貞が発覚した時の、呆れかえる言いぐさ。その虫唾がはしる言い訳を、小六の聡美は首をふって拒絶した。弱い母はいつも誰かのせいにする。魔物のせいにして、父のせいにして、最後は聡美のせいにする。わたしは絶対、そんな風になるもんか。魔に刺されたりするもんか。叫んだのか呟いたのか、自分でもよくわからない。けれどその答えを待っていたように、どこかでコツコツと杖が鳴る。そして、
「どうです? 通り物……似ているでしょう、例の伝怪に」
 過去の父の言葉に、老人の声が重なった。

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伝怪 11 

伝怪

 著者が漫画家だけあって、本は絵図……というより、イラストつきで妖怪や都市伝説について解説した、とてもわかりやすい内容だった。
 入門書の位置にあたるのか、知識の薄い聡美にもどうにか理解できた。
 メインになるのは、やはりイラストつきの妖怪や怪人の解説だったが、まずはじめにおおまかな〝妖怪〟の説明があり、つづいてその役割が記してある。まだ科学という灯りが世界を照らしていなかったころ、その代りに〝万物の説明〟をつけるために生まれたのが妖怪だと書かれている。
 たとえば砂地でもない森の中で、風もないのに砂が目に入った時。
 それが誰かひとりの体験なら、さした問題にもならないだろう。科学がなかった時代でも、「まあ、不思議なことがあるものだ」で済まされるに違いない。けれど同一の時間、同一の場所、同一のシチュエーションでそれが何度もくり返されると、ほんの少し状況が変わってくる。現代でも〝理解不能な現象〟が身近につづいた場合は、それがどんな些細なことでも人は不安に思うはずだ。
 なにかよくないことの、前兆ではないのか?
 自分たちは、このままここにいて本当に大丈夫なのか?
 そんな時、人は必ず情報を同期して〝現象に形を与えよう〟とする。今の時代ならネットで。一昔前ならテレビやラジオで。集団ヒステリー、プラズマ、ブロッケン現象……とにかく集められるだけの情報を統合して、当面の安心を得ようと奔走するはずだ。
 理解できない、ということは。それだけで不安だ。
 ないはずの砂が目に入った。その程度の日常の違和感でも、積もり積もれば得体のしれない不安に変わる。
 現代ならそれも、気流やなにかの関係で樹の上に砂が堆積し――とか説明もつくはずだろうけど、あいにくとそんな常識がない時代なら? 募った不安は恐怖になり、恐怖は錯覚や幻覚を産む。それは聡美も、我がこととして知っている。
 ましてその時代、暗がりは真の闇だ。
 現代人ですら闇の中には、ありもしない気配を感じたりする。当時の人たちの身の上で考えれば、なおさらそれは大きいだろう。なにしろこの国の歴史を紐解くと、〝姥捨て〟や〝間引き〟は、どこにでもあった普通の慣習だ。
 でも普通だからといって、それをして平然といられたわけはない。
 闇はそんな負い目の影を、こころの奥底から引きずり出す。
 その中で、砂を目に食らったある人が、森の闇に〝山に捨てた己の老母〟の気配を感じ取ったとする。ぞっとして冷や汗をかいたその人は、逃げ帰って、寝ずに待っていた女房に夢中でその話を聞かせるだろう。
「あれはおっ母だ。きっと俺を恨んで、化けて出たに違ぇねぇ」
 もしかするとその話は、宵っ張りの子供たちも聞いていたかもしれない。娯楽の少なかった時代だ、次の日の井戸端や遊び場は、その話で持ちきりになったかも。そして父の言葉ではないが、かつてコミュニティの情報同期の手段は〝噂話〟だった。
 中にはひとりくらい、「そういやうちの亭主も……」と言い出したかもしれない。
 そうなると、「うちもうちも」と連鎖が始まる。
 そうやって噂が伝播するうち、情報から〝どこの誰べえの母親〟は消えて〝老婆〟という単語だけが残ってゆく。
 気配を感じたのがひとりであれば、〝母親の幽霊〟なのだろうが――それが複数人ともなれば、もう砂をかけるのは〝得体のしれない老婆〟だからだ。やがてそれが浸透してゆくと、現象には『砂かけ婆』という名前がつけられる。
 まずそれが妖怪誕生の第一歩目だと、その本には書いてあった。
 恐らく著者の独断もおおいに混じっているだろうが、人間心理や緊急回避などとややこしいことを並べて煙に巻かれるより、聡美はよほど素直に納得することができた。
(つまり、姿形を与えて不安を遠ざける?)
 そこで一旦顔を上げ、聡美は窓の外の景色に視線を投げる。
 昼間なら公園の広場を見下ろせる二階の窓も、今は鏡のように反射して、意識をしなければ映り込む聡美の姿の方に目がゆく。
 ガラスの向こうの闇と館内の照明が、そう作用している。見えなければ希薄になってしまう自分への意識も、この状態だとよく感じ取れる。顔色はどう? 髪の乱れは? 具体的に形がわかることで、対処法も方針も見えてくる。
 それで復調することも髪が整うこともないが、見えることでなぜが安心する。
(そういう、ことなのか……)
 たぶん厳密には違うのだろうが、聡美は勝手にそう解釈した。現象に形と名前を与えて目途をつけることで、〝わからないもの〟を〝実態のあるもの〟へと変換する。実態さえあれば、得体がしれなくても対処も予防もできる。たとえば聡美は、小さいころ宇宙や時間のことがわからなくて漠然と畏怖を感じていた。
 宇宙はどこまでつづいているのか?
 その外側があるのなら、外側とはどこまでつづくのか?
 そもそも、宇宙ってなに?
 アリの巣だのトンネルだのといわれても、さっぱり理解が及ばなかった。時間と空間がといわれても、その時間とはなんなのか?
 今日の前に昨日があって、昨日の前に一昨日がある。そうやって遡って、どこから時間が始まっているのか? 考えると意味もなく不安になって、夜も眠れなくなったことだってある。けれど誰も、聡美が納得できる形で答えを出してはくれなかった。
 思い切って父に訊ねると、盛大に笑われた。
「科学ってのは、そういうはっきりしないものに〝概念〟っていう輪郭をつけるただの定規だ。はっきりしないのに、そこにあったらモヤモヤするだろう? だから、とりあえずの形と名前をつけて安心する。宇宙も時間も、本当にあるのかは誰も知らない。知らないから、〝そういうものだ〟で納得するのが一番だ。まあ、難しく考えるな」
 そう言われて、長年の異物感がぱっと解消された。
 あやふやなりに実態が見えたことで、不思議な安堵感を得たのを覚えている。聡美が畏れたのは〝わからないこと〟自体で、宇宙や時間ではなかったのだ。その証拠に、今ではどちらも怖いとは思わない。
 そう考えてみれば、科学もオカルトもたいした違いはないのかもしれない。「科学には実証と結果が――」と聞いたこともあるが、それだって〝科学からの目線〟で構築された理屈によるものだ。オカルトにはオカルトの理屈だって、あるにはあるだろう。第一その科学だって、身近なことも明らかにはできていない。
 脳の仕組みも八割は解明されていないというし、病気にしたって対処法がわかっていても原因が不明なものはたくさんある。それでもみんな科学を信じ、説明を受ければ安心する。昔はそれが信仰であり宗教であり、別の根拠で動いていただけ。
(……妖怪も、その一部)
 アニメやゲームの影響で、聡美は妖怪をキャラクターのように思っていた。
 実際、江戸時代から先はそうなったと、本には書いてあった。元来『妖怪』とは、文字通り〝妖しく怪奇な現象〟をさす言葉で、いわゆる〝お化け〟限定ではないらしい。擬人化をともなわない、不可思議な現象……今でいうと異次元や超能力といったものも、そこには含まれるそうだ。ともあれオカルトが、人間が生きる上での安全装置だったことはわかった。知ってみると、意外と興味深いものだった。
 そして解説は、〝都市伝説〟へと進む。
 いよいよだ。そう思って、もう一度唾を飲み込む。その瞬間、
「ははぁ、これはまた――」
 唐突に声がして、聡美はビクリと顔を上げた。反射的に目を凝らした窓ガラスには、馬鹿みたいに呆けた自分と、微笑みながら立つ老人の姿が映っていた。……いつの間にうしろに? 慄きながら体ごとふり向くと、はずみで横滑りした椅子の足がギギッと不快な音を立てる。離れた閲覧机の方から、また女子大生風の咳払いが聞こえた。
 老人は、困った顔で閲覧席を見やると、
「すみません、ご迷惑をかけてしまったようで」
 そう言って、見事に禿げ上がった頭をぽりぽりと掻いた。とっくりのセーターの上にねずみ色のスーツを着た、人のよさそうなお爺さんだ。
 着ているものはどちらも着古して多少よれていたが、どこか品のいい感じがした。右手には生成りのコートをかけていて、左手にはステッキ――というか、木目調の節だった杖をついている。それが妙に印象的だった。
(誰だろう……)
 顔見知りかもとも思ったが、やはり見覚えはない。そもそも話しかけてくるような知り合いは、今の聡美にいるはずもない。
 困惑した聡美は、おずおずと老人の問いに問いで返す。
「いえ……あの、なにか?」
「ああ、重ねてこれはどうも……いきなりこんな爺ぃに話しかけられたら、そりゃお嬢さんもびっくりしてしまいますなぁ」
 言いながらもわるびれた様子はなく、「私はただね」と、老人は聡美の手元の本を指さした。一連の所作があまりにも自然で、ついついペースに巻き込まれた。
「その図鑑、お嬢さんみたいな今時の子が読むのは珍しい……というか嬉しくてねぇ。いやいや、その歳で妖怪に興味を持ってくれるとは。これもテレビのお陰なんですかな。私も愛読書なんですよ、それ。もう少し上級者になったら、柳田國男や井上円了なんかも読んでみるといい。将来有望だ」
 聡美は、はぁ、と答えるしかなかった。
 それは構わないが、いきなり言われてもリアクションに困る。
 老人もそれで空気を察したのか、あぁこれは、とくり返すと頭を下げた。聡美もつられて、小さく目礼をする。それにしても、どこにいたんだろう? さっきまで、お爺さんなんて見かけなかったのに。本棚の陰にでも隠れて、見えなかったのだろうか? それとも気づかないうち、閲覧室に移動してきていたのか?
 そんなことを考えながら見上げていると、老人は「じゃあ、ごゆっくり」とにこやかに微笑んだ。聡美もなにか返そうと口をパクパクさせたが、老人はいやいやと手をふって踵を返した。ところが、その去り際に、
「おや……」
 肩越しにふり向いた老人の目が、ふたたび図鑑の上で止まる。ほんのちょっと嬉しそうに眉を上げると、ぽつりと言った。
「お嬢さんが知りたかったのは、〝伝怪〟の方ですか」
「……えっ?」
 聡美は思わず聞き返した。老人の表情も気にはなったが、それより耳慣れない単語を聞いたからだ。伝怪……語呂や老人の目が追った先からみて、都市伝説のことだろう。聡美の手元の図鑑は、都市伝説についてのページが開きっぱなしになっている。
「あの、伝怪って――」
 呼び止めるともなく声をかけると、それが口癖なのか「あぁ」と呟いて、老人は照れくさそうに聡美に向き直った。
「どうも、度々失礼を。伝怪ってのは、私が勝手につけた呼び名でして。お察しの通り都市伝説の怪人のことです。伝説の〝伝〟に、怪人の〝怪〟。仕事がらこの手のものを扱うことが多かったもので、妖怪と区別するためにちょっと。はい」
 仕事といっても、昔のことですが――
 そう付け足して、老人はまたぽりぽりと頭を掻いた。
 ということは、学者か学芸員……それとも大学関係の? 自分の身近な環境で考えたせいか、聡美が連想したのはそういう職業だった。訊ねると老人は悩ましげに首を傾げ、「まあ、そんなところですかな」とだけ答えた。
「それはそれとして。お嬢さんが調べているのは、その伝怪の方では?」
「そう、なんですが……」
 聡美は、どう説明していいかわからず口籠った。
 いきおいで聞き返してしまったものの、まさか〝幻覚の怪人〟への対処法を調べていたとは口が裂けても言えない。けれど老人は、この図鑑を愛読書と言っていた。さっきまでの口ぶりからしても、どうやら妖怪が専門らしい。ということなら、もしかして。
 思いきって、相談してみようか? そんな考えが聡美の頭をよぎる。でも初対面の人にこんなトンデモ話、いくらなんでも非常識だろうか。
 さんざん思案して、やっと出た質問は、
「その、お爺さんは詳しいんですか? 都市伝説……伝怪にも」
 という、ぼんやりしたものだった。

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伝怪 10 

伝怪

 あとは、どこをどう走ったのか覚えていない。いつの間にか公園に飛び込んでいた聡美は、遊歩道を滅茶苦茶にぬって、気がつくと図書館の前に立っていた。
 肩を喘がせ、鞄を抱きしめそのシルエットを見上げる。
 常緑樹の生垣で公園から仕切られた、サイコロを重ねたような独特の形――無意識に知った道をたどったのか。ただの偶然なのか。どちらにしろ、暗がりに浮かぶ見慣れたタイル張りの建物が、今はとても頼もしかった。
(よかった、ここなら……)
 ひとまずの安息を得たせいか、ほっとして上気した頬が緩む。
 慣れない全力疾走で肺は破裂しそうだったが、恐怖から解き放たれた安堵でそんなものは気にならなかった。北風にさらわれる落ち葉が捌けるように、さぁっと頭痛も引いていった。そのころにはもう、自分が正気かどうかもどうでもよくなっていた。
 ――とにかく、一刻も早く中へ。
 はやる気持ちを抑えながら、聡美は図書館の自動ドアを潜る。平日の夕方ということもあり、館内に思いのほか利用者は少なかった。それでも人の気配があるだけで、本当にありがたかった。まずは、ここで気を静めよう。混乱した頭を、もう一度整理しよう。そんなことを考えながら、エントランスからロビーへ入る。周囲の目に気をつけながら、大きく深呼吸をひとつした。
 どこか埃くさい、読み込まれた古い紙の匂い。
 嗅ぎ慣れたその匂いを胸いっぱいに吸い込むと、ほんの少しだけ落ち着いた。荒んでいた精神が、ひさしぶりに凪ぐのを感じた。
(そういえば、図書館にくるのなんて何週間ぶりだろう)
 どうにか巡り始めた頭で、なにげなくそう考える。
 ずっと張り詰めていたものが、ふっと途切れるのがわかった。
 もともと聡美が読書を始めたのは、例の噂が広まった小六のころからだった。理不尽な孤独をまぎらわすため、気になった本は手当たりしだいに読んだ。もっともそれは、小説や詩集が大半だったが、だから聡美は自分を愛読家だとは思っていない。毎週末をこの図書館ですごしたのも、わずらわしい周囲の目をさけるためだった。
 けれど知らぬ間に、聡美にとってここは安らぎの場になっていたらしい。ここしばらくは、そんな時間すら奪われていた。
 さっきまでの身の竦む恐怖も忘れ、しみじみと館内を見渡してみる。
 受付カウンターには、よく顔を見る女性職員がいた。今年の春先の配属以来、聡美の顔を覚えているらしいその若い司書は、あら、という表情をしてから、にこやかに聡美に目礼した。聡美も戸惑いながら、伏し目がちにお辞儀をする。
 余計な人間関係を嫌う聡美は、もちろん一度も彼女と声を交わしたことはない。でも今はその気遣いが、なんだか無性に嬉しかった。
 受付の対面には視聴覚コーナーがあって、インターネットスペースに大学生らしい人影がポツポツと見えた。受付で申請すればノートパソコンの貸し出しもあったが、アナログ派の聡美はここには用がなかった。
 あとはその先に、会議等に使う多目的スペースが。
 こちらはこの時間だと、利用者がいる様子はさすがにない。すべて馴染み深い変わらない風景――ほんの数週間ぶりなのに、なぜかだかとても懐かしい気がした。
 そのお陰もあってか、じょじょに聡美も平静を取り戻してゆく。ロビーを横ぎり二階への階段を上るころには、現実の……といっても怪人は幻覚だが……忌まわしさからも解放され、足取りもだいぶ軽くなっていた。
 二階は開架図書になっていて、ずらりと書架が並んでいる。
 やはりこちらにも、さほど人はいなかった。児童書を含むキッズコーナーが無人なのは当然のこと、一般向けの閲覧席にも間を置いて二、三人――大きな机をそれそれぞれが独占する形で、資料を広げてレポートらしき作業に没頭している女子大生風や、本を積み上げて読みふける、暇つぶしらしき若者たちが確認できるだけだった。
 書架の間にはまだ誰かいるかもしれないけれど、階段側からでは死角になってよくわからない。少なくとも、気配は感じられない。
 とりあえず、何冊か見繕って……。
 そう考えた聡美は、詩集の棚に足を向ける。混乱した頭を覚ますには、物語より純粋な言葉の結晶の方が適しているような気がしたから。
 ――と、その時。
 鞄の中で断続的に振動音がした。驚いて飛び上がりそうになった聡美は、あっ、と小さく声を漏らして立ちつくす。そういえば携帯の電源をきっていなかった。いつもなら、絶対に忘れたりなんかしないのに。
「え、えっと……携帯」
 初歩のミスに狼狽えながら、もそもそと鞄を探る。
 ようやく携帯を取り出してため息をつくと、閲覧席から露骨な咳払いが聞こえた。レポートに熱中していた、さっきの女子大生風だ。それが口火になって、連鎖するように視線が集中する。聡美はおどおどと頭を下げると、手近な書架の間に飛び込んだ。
「あぁ……」
 慌てて確認してみると、父からのメールが数件ほど着信していた。
 手早く携帯を開き、タイトルにだけ目を通す。内容は読まなくても把握できた。『電車が止まっている』『夕飯は遅くなる』。最初の何件かは、聡美がバスで呆けていたころのメールだ。数秒だけ迷って、聡美は返信せずに電源をきった。
(なにも、このタイミングで……)
 今さら罪悪感はなかった。
 どうせ父がメールしたのは、聡美ではなく記号になのだから。気がかりがひとつ解消した安心感よりも、不意を突かれたことに苛立った。
 一瞬、父に対してなにかが点灯した。
 昏い昏い、こころの奥底から産まれた、赤黒く澱んだなにか。
 わたしがこんな思いをしている時に……どうせ必要なのは人形のくせに……急速に膨らんだ激情に動揺し、はっとして我に返る。やめよう。わたしは記号だ。人形なんだ。こんな恐ろしい感情は……気を取り直して、書棚を見上げる。とっさのことで気づかなかったが、参考図書の棚のようだった。
 一般的な辞典や図鑑に混じって、宗教や民俗学の書籍も並んでいる。
 ――民俗学。
 父が専門としている分野。
「まったく……」
 思わず口に出て、首をふって詩集の棚に足を向ける。見るともなしに棚のつづきに視線を滑らせてゆくと、端の一角で目が留まった。雑学のラベルが貼られた一群に、見覚えのあるぶ厚い文庫がぽつんとあった。なんの変哲もない灰色の背表紙だが、ひねりのない安直すぎるタイトルも薄っすらと頭の隅に残っている。
『図説・現代妖奇考』
 記憶の中の――あるいは夢の中の、父が読んでいた愛読書だ。
 ぞわりと、なにかが背筋を這う感覚があった。
 恐怖や嫌悪ではなく、予感のようなもの。思わず手に取って、聡美は閲覧席へと向かった。閲覧用の机は書架から窓よりにあり、窓際にはカウンターになったひとり掛けの席が並んでいる。ちょっと迷っていると、咳払いの女子大生風と目が合った。その睨むような視線に気圧され、机から一番離れたカウンターの奥の席に座った。
 席に着くと、ひと息ついて表紙を撫でる。
 暗い深緑をバックに、黄色でタイトルが印刷された表紙だ。
 裏表紙には〝妖怪から都市伝説へ〟のうたい文句と、著者の持論を云々という簡略な内容説明が書いてある。……都市伝説。その文字が目に飛び込んできたとたん、聡美は生唾を飲み込んだ。どうする。やはり読むのはやめようか。
 今なら、素知らぬ顔で本棚に戻すだけ。
 なにくわぬふりで、詩集の棚に行って本を選び直せばいい。でも。
(うぅん、これもなにかの縁だ)
 そう覚悟して、聡美は表紙に手をかける。それにひょっとすると、あの幻覚の原因がなにかもわかるかもしれない。妖怪。都市伝説。こころの闇。父はそれを、人間の営みそのものだと言った。そこにどんな繋がりがあるか皆目見当はつかないけれど、わずかでもその辺りに触れることができれば、聡美自身の異変にも説明がつくのかも。
 わけもなくそんな気がして、ゆっくりと表紙をめくる。
 なにかに憑りつかれたとすれば、この時なのかもしれない。

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