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我と我が身と彼のものと。

常在辞世。渋枯れ好みの“詫びオタク”…なんとなく更新中。
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伝怪 あらすじ

 都市伝説の怪人、ってくらいですから、伝怪なんてなぁどうでしょう?
 そう言って、おでん屋台のおやじは客に語り始める。内容は、目と鼻の先の団地で起こった殺人事件。心神喪失状態の少女が、カッターナイフで父親の首を切り裂いたという。そしてそこには、その伝怪が関わっているというのだが……

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[ 2017年05月13日 11:11 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 01

 じゃあ話の前に、その現象に名前でもつけときましょうかねぇ、旦那。
 いえいえ。この手の噂話ってなぁどうも、酒の肴にするには、いちいち呼び方が長ったらしくていけませんや。そうでさぁね、都市伝説の怪人ってくらいですから、
 伝怪……なんてのはどうでしょう。
 ええ、口裂け女だ人面犬だって、アレですよアレ。
 なら妖怪でいいだろうって? ところが、そうもいきやせん。なんでも偉い先生方――民俗学ってんでしょうかね。ほら、あの民話だなんだを集めてる先生らに言わせると、三代以上語り継がれたモン以外は、妖怪って呼んじゃいけねぇんだそうですよ。三代前っても〝人間の〟じゃありゃあせん、〝時代の〟って意味だ。ようするに、旦那の爺さんのそのまた爺さんくらいの連中がみんな死んだんで……って話ですから、ざっと三百年だの四百年をかけなきゃ妖怪の勘定には入れてもらえない。
 都市伝説に怪人ってのが出まわり始めたのが、昭和十年代の赤マントたらいうヤツからってんですから、コイツらぁまだまだ……。
 はい? おでん屋のおやじのくせに、妙なことにくわしいって?
 あはは、たしかに。けどこんなトコで屋台なんぞ引いてますってぇと、いろんなお客さんがくるモンです。こないだも、どっかの博物館の学芸員って方がみえまして。タネをあかすとその受け売りなんでさぁ、へえ。
 ……とまぁ、そんなワケで、妖怪じゃなくって伝怪。
 おや、気に入っていただけましたかい? そりゃあよかった。んじゃ、こっから先はこの呼び方で通させていただきまさぁ。へへ、伝怪か……我ながら、なかなか乙な名前をつけたもんだ。ああ、そんな手前贔屓はいいから話のつづきを。
 そうでした、そうでした。
 まあ、さっき言ったみたいにね。伝怪ってなこりゃ、単なる噂話です。といっても、それで終わっちゃあ、文字通りお話にならねぇ。
 この話がおっかねぇのは、きっちり死人が出ちまってるところでしてね。旦那だって新聞くらい読んでるはずだ……うん? ニュースならスマホで? さいですかい、近ごらぁめっきり便利な世の中になっちまった。
 ってことなら、そのスマホってやつでも構いませんや。
 ええっと、ありゃ……二、三週間前だったかな。ほら、あすこに見えてる団地で、中学生の女の子がお父つぁんをヤッちまった事件があったでしょ。そうそう、カッターナイフとかって文房具で、首のここんトコをこう……サクッ! とね。
 アタシも人づてに聞いたんだが、そりゃあ現場は酷いモンだったらしいですよ。
 切り口から噴き出した血が、ぶわぁっとキッチン一面に――ええ、お父つぁんの方は夕飯の支度中だったみたいでして。父子家庭、ってんですか。親ひとり子ひとりの事情なんで、そう決まってたらしいですが、なんとこの日の献立がおでんだった。そこに、そん時の血がまともに入っちまったてぇから堪らない。
 もう鍋ン中は、豚の血を煮込んだシチューみたいにどす黒い有様で。
 部屋の外まで漏れてきた、鼻のヒン曲がりそうな生臭さに、駆けつけた警官も吐き気を堪えんのがやっとだったそうです。
 で、当の女の子は緊急確保って寸法ですが、この状況がまた尋常じゃなかった。
 ……咥えてたってんですよ、ちくわを。
 それもお父つぁんの血で真っ黒に煮込まれて、ぶくぶくに膨れ上がったヤツをまるまる一本。ちょうどほら、今の旦那みたいにしてねぇ。
 おっと、こりゃスンマセン。食欲がなくなっちまいましたかい?
 まま、そんな顔せずに。ね? 今日みたいに冷え込む夜にゃあ、やっぱりコイツが一番でさ……そんで、なんだったかな?
 ――あぁ、そうだそうだ。女の子、女の子。
 でもって、そんな具合ですから、警官もおそるおそる声をかけた。血だまりン中でぼーっとお父つぁんの死骸を見下ろしてる女の子に、堪りかねて胃の中身を盛大にブチまけたあとにねぇ。そしたら、こう答えたそうですよ。
 自分が殺した。〝トンカラトン〟になったから、ってね。
 言ってることがさっぱりわからねぇ?
 でしょうなぁ、でもここがこの話のキモでして。トンカラトンってのは、伝怪の名前です。知る人ぞっていやぁ聞こえはいいが、ちっとばかしマイナーな、ね。きっと行き会って斬られちまったんですなぁ……女の子は、その薄っ気味わるい現象に。

[ 2017年05月13日 11:30 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 02

       ―― ・ ――

 八号棟前の公園に、トンカラトンが出た。
 その噂をはじめて聞いたのは、たしか六年前。聡美が小学三年生だったころだ。
 中学生になった今はもちろんのこと、当時の聡美にとってもそれは呆れ返るくらい幼稚なお話で、おなじ棟に住むカヨちゃんと苦笑いしたのを覚えている。なぜなら、トンカラトンは包帯で全身をグルグル巻きにした怪人で、
「いきなり自転車できて、〝トンカラトンって言え〟って脅すんだ」
「言わないと、持ってる日本刀で斬られちゃうんだって……」
 という、子供だましにもならない都市伝説だったから。
 おまけに、聞かれる前に勝手に〝トンカラトン〟と答えても、やっぱり敵とみなされて斬られてしまうらしい。だから決して手順を間違えてはいけない。左手に包帯を巻いておけば、仲間だと勘違いして見逃してもらえる。
 もうここまでくると、整合性もなにもない。単なるインネンだ。
「トン、トン、トンカラトン」
 ――トン、トン、トンカラトン……。
 奇妙な拍子でくり返す男子たちのその歌を、聡美はため息まじりに聞いていた。ガニマタで踊りながら歌うそれは、件の怪人が口ずさんでいるものだというが、だからなんだというのだろう? 今どき、都市伝説なんて流行らない。「アニメのTシャツを着た不審者がウロついている」とでも言われた方が、よっぽど怖いくらいだ。
 ただ、話のオチにつく一文だけは不思議と気になった。
 ……トンカラトンに斬られた人は、トンカラトンとなってさまよいつづける。
 死ぬことすら許されず、団地の片隅で増殖する異形のなにか――おぼろげにその姿を幻視した一瞬だけ、首筋をそら寒い感触が撫でつけていったものだった。
(でも、なんで今さら)
 こんな昔のことを思い出すのだろう。取るに足らない、子供時代のわるふざけを。
 考えれば考えるほど、泥を詰めたように頭がノロノロまわり、堪らず聡美は硬くまぶたを閉じた。どこかへ引き込まれるような不快な感覚。重く深く沈み込む思考を必死に堪えていると、甲高い女教師の声で現実世界に引きずり戻される。
「市ノ瀬さん……市ノ瀬聡美さん?」
「……あ、はい」
 慌てて顔を上げると、教壇から担任の藤崎先生がじっとこちらを見つめていた。
「もしかして、身体の具合でもわるいの?」
「……いえ、そんなことは」
「そう。だったら、いいんだけど」
 さらになにか言いかけて、先生はすぐに口を閉じる。
 もちろん聡美の言葉を真に受けたわけではないだろうが、たとえ教師といえども、いわくつきの生徒とは必要以上に関わりたくないのだ。一様に聡美を盗み見た生徒たちも、すでに興味をなくして手元のスマートフォンに目を落としているか、これ見よがしに眉をよせながら、ヒソヒソとなにかささやきあっている。
「えぇと、どこまで伝達したかしら――」
 そうして教室は、なにごともなかったような先生の声でざわめきを取り戻し、いつものホームルームの風景へと返っていった。身を縮めてその様子を確認した聡美は、小さく安堵の息を漏らし、鈍い痛みを増すこめかみに手をあてる。
(……そうだ、これでいい)
 どのみち、ここに聡美の居場所はない。形だけ与えられた廊下側・最後尾の席は、〝かわいそうな被害者〟を保護する安全地帯ではなく、〝子供に見せたくない汚れモノ〟を隔離するために用意された、60センチ×40センチの流刑地なのだから。
 とにかく目立たないように。
 それだけに集中して、ふたたび目を閉じる。穢れた血を受けついだ不浄の子。インバイから産まれたあさましい娘。大丈夫、大丈夫。こうして嵐がすぎるのを待っていれば、そんな陰口だっていつかは聞こえなくなってくる。
(きっと、あんなことさえなかったら)
 時折そう考えることもあるが、それだって〝今さら〟に違いない。
 聡美は息を殺し、じっとその時がくるのを待った。やがてじょじょに頭の芯が痺れてゆき、きつく結んだまぶたの裏側にまた現世が遠のいてゆく。たんたんと職務をこなす事務的な先生の声も。うわべの共感に余念のない級友の会話も。聡美を置き去りにした母の背中も。日ごと壊れてゆく父の無残な姿も。
 全部全部、ねっとりと粘りつく暗闇の彼方へ。そしてその向こうの深淵から、
 血濡れた包帯に塗れた腕が、ゆっくりと聡美に手まねきをした。

[ 2017年05月20日 17:54 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 03

 ホームルームが終わると、生徒たちは好き勝手に各々の場所へと散ってゆく。「カッタりぃ、カッタりぃ」を連呼しながら部活へ向かうもの。「どこそこに気になる店を見つけたから」と寄り道のグループを集っているもの。
 聡美はそそくさと鞄を抱え、喧騒から逃げるように教室をあとにする。
 もうすっかり馴染んでしまった、これも日常の光景だ。
 無秩序に廊下を行きかうジャージや制服にまぎれ、階段を下って昇降口へ。そのまま校門を出て急な坂道を下りきれば、校舎のある高台から迷路のような住宅街に入る。あとは見通しのわるい路地の角をひとつふたつ折れれば、もう聡美が住む二十数棟建てのマンモス団地までは目と鼻の先だ。
 急がなければ、きっと父は今日も早く帰ってくる。
 そして聡美のために、夕飯の支度をするだろう。それを必ずふたりで囲むのが、母が家を出てからの父と聡美の約束になっていた。だから聡美も、それまでには戻らなくてはならない。でないと、また家族が壊れてしまう。
(だけど……)
 この日の聡美の足は、県道をまたぐ歩道橋を渡るのを躊躇っていた。
 学校で妙なことを思い出したせいだろうか? 暮れかけた冬の陽に鈍く紅く染まる、見慣れた白壁の群れを対岸に眺めていると、脳内にすぎた日の出来事がつらつらと蘇ってくる。家族も友達も揃っていた、そう思い込んでいた、あの日々のことが。
 ――公団を軸にした団地の町。
 聡美がこの町に越してきたのは、小学校二年の春休み。例の怪人の噂を聞くはめになった、三年進級をひかえた時期のことだった。
 ちょうど東京との県境にあたるこの地域は、都心にもほど近く。そのわりに低い賃貸相場のため、ベットタウンとして人気が高い。郊外まで足を伸ばせば、まだまだ余剰に土地も残っているらしく、大学の新設学部や企業施設の誘致も多かった。その相乗効果もあってか人口も右肩上がりに増えていて、近年改めて注目を集めているという。
 それが聡美の両親の目を引いたのだ。
 父の仕事の都合、というのが引っ越しの主な理由ではあったが、それまで暮らしていた六畳と四畳半の都内のアパートでは、聡美の成長にともなって手狭になってきたからというのもある。もちろん父と母と聡美、三人揃っての移住だった。
「ごらん、聡美」
 道中の車内。父に言われて見上げた場景は、今でも鮮明に思い出せる。
 県道に覆い被さるように迫ってくる、統一デザインの棟の波。駅前を起点とするドミノのように規則正しい配列は、そのまま一区画ほどつづき、さらに棟のデザインだけを変えて、同様の景色が何ブロックも窓の外を流れゆく。
「わぁ――」
 ある種圧倒的なその景観に、聡美は思わず声を漏らしたものだった。
 都会育ちの聡美にしてみれば、もっと高層のビルも近代建築も慣れっこだったが、いかにも〝町ごと設計した〟というこの町の風情はオモチャやゲームの世界が現実に出現したようでもあり、幼い目には新鮮な印象で映ったから。
「ここはね、団地から生まれた町なんだ」
「団地から、町が?」
 運転席から得意げに解説する父に、オウム返しすると、
「今日から住むお家も、その内のひとつなの」
 そう助手席の母が便乗する。
「きっと、お友達もたくさんできちゃうわよ? 楽しみねぇ」
 どこか惚けた笑顔を浮かべる母に、聡美も無邪気にはしゃいでみせた。少し型の遅れたファミリーワゴンの車内は、その時たしかに幸福があふれていたと思う。実際、これからこの〝オモチャの町〟で送る新生活に聡美も胸をときめかせていたし、父と母もそれを少しも疑っていなかったろう。
 そんな期待を裏づけるように、母の予言もすぐに的中する。
 カヨちゃんに出会ったのは、引っ越しの翌日だった。荷解きを始めた両親の邪魔をしないよう、聡美が敷地内の公園で遊んでいた時のことだ。
「……あなた、新しく越してきたお家の子?」
「うん……えっと、そこの棟の三階に」
「そっかそっか、どうりで見かけない子だな――って、思ったんだよね」
 かがみ込んでシロツメクサを摘んでいた聡美は、いきなり現れた女の子を茫然と見上げた。そんな聡美の様子もお構いなく、女の子はポンポンと質問を投げつけてきた。それがカヨちゃんとの最初の会話だった。
 矢つぎ早に突きつけられる質問に、聡美はしどろもどろに答えた。
 父は大学講師で、春からかけもつ職場が増えたこと。前のアパートは、東京の下町にあったこと。専業主婦の母は優しいが天然ぎみで、驚くほど世間知らずなこと。そのひとつひとつを、カヨちゃんは興味深げに聞いていた。人懐っこそうな目を見開き、うんうんと都度に大きく頷きながら。
 その日から自然と、聡美はカヨちゃんと行動を共にするようになった。
 聡美の家は、八号棟の三〇二。カヨちゃんの家は上の階の四〇一。おなじ団地に住むおない年の子供な以上、当然、聡美もカヨちゃんとおなじ小学校に転入した。さらに偶然はつづいて、運よくクラスもおなじになった。
 カヨちゃんは好奇心旺盛な物怖じしない子で、どちらかというと引っ込み思案だった当時の聡美とも不思議とウマが合った。ふたりがお互いを親友と呼ぶようになるまで、たいして時間もかからなかった。
 それからの四年間は、本当にめまぐるしくて充実した毎日だった。
 運動会には、母がお弁当を作って応援にきてくれた。授業参観は、仕事の都合をつけた父が照れくさそうに見学してくれた。
 週末には、住民総出で団地の清掃をすることもあった。
 聡美もカヨちゃんと一緒に、せっせとゴミ拾いをしたものだ。そんな時、大人たちは決まって〝金持ち組〟の噂話をした。「えらそうにしてても、本物の金持ちは駅まわりの旧家だけさ」「新興住宅の連中は家を買った分、金はないよ」「実際は〝団地組〟の方が積み立てしてるから、お金を持ってるの」――。
 団地に住む団地組と、持ち家に住む金持ち組。地方特有のローカルルールで張り合ってはいたけれど、そんな雑多な空気も含めて聡美はこの町が気に入っていた。むしろ小さなコミュニティで結束する風潮に、奇妙な居心地のよさすら覚えていた。
 聡美が小五の時には、母もパートに出ることになった。カヨちゃんの父親がフロアマネージャーを任されていた、駅前スーパーの食鮮コーナーでだ。
 母はパートから戻ると、いつもウキウキと夕飯の支度をした。
 その後姿を眺めながら、聡美はキッチンのテーブルで宿題や予習をした。
 ほっとする匂いが鍋から漂ってくるころになると、計ったように父が帰ってくる。聡美はリビングに移動して、困り笑いの父に勉強の助っ人を頼む。そんな様子をにこにこ眺めながら、「もうご飯ですよ」と母が声をかける。そして三人揃って夕餉の食卓を囲み、一日の報告をするのが聡美たち家族の習慣だった。今日のように寒い冬の日のメニューは、父の好物のおでんが多かった。
 取り立てて恵まれていたわけではなかったけれど、まるでホームドラマに出てくるようなあたたかい家庭がそこにはあった。そんな時には、改めて思ったものだ。「わたしはこのオモチャの町が大好きだ――」、と。でも……

[ 2017年05月27日 11:04 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 04

(どこが、オモチャの町なものか)
 根こそぎの歯車が狂ったこの二年半を思い返し、聡美はきつく唇を噛みしめる。
 結局そんなものは、ただの幻想でしかなかった。どんなにうわべだけ整えてみても、町の本質も人間の本質も変わらない。ひと皮剥けば、ドロドロの自己愛と保身の塊でしかないことを、今の聡美なら知っている。
 その証拠にあれだけ優しかった母は、聡美が小六の時に不倫をした。
 相手はよりにもよって、カヨちゃんの父親だった。
「ごめんなさい、魔が刺しただけなの」
 母はさめざめと泣きながら、狼狽する父に足に縋りついた。泣き落としが通用しないとわかると、今度は豹変して父と聡美をなじり飛ばした。女として見られないつらさが、母としか扱われない切なさが、あなたたちにわかるのか――と。
 髪を振り乱し唾を飛ばしてわめくその姿は、ひたすら気持ちがわるかった。
 そこにはもう、天然ぎみのほがらかな母の顔はなく、甲斐甲斐しく夫の世話をやく妻の顔もなかった。あったのは、どこまでも自分だけを主張する女の顔。魔物に憑かれたように醜く歪んだ、無様で剥き出しな人間の顔だった。
(この町にしたって、そうだ……)
 身勝手な母が聡美と父を捨てて消えたころ、事件に飢えた噂好きの住民たちも嬉々として本性をあらわにした。
 団地組だの、金持ち組だの、もともと些末な連帯意識でより合っている土地柄だ。「こいつは叩いて構わないよ」と言われれば、気さくで面倒見のいい隣人の仮面をほうり捨てるのに、数瞬の躊躇いさえ見せはしなかった。
 ましてこれは、都市伝説の怪人みたいな戯言ではない。
 自分も他人事では――と大手をふって糾弾できる、身近に起こったエンターテインメントなのだ。下世話なゴシップは、またたく間に広まった。マンモス団地一帯はもちろんのこと、小学校の保護者たちにいたるまで。
「いっつも物欲しそうな顔して、前から気にはなってたのよ」
「それにしたって、子供の同級生の親と……ねぇ?」
「しかも、おなじ団地に住んでたんでしょう?」
 その時すでに、カヨちゃんは母親に連れられて町から引っ越していた。あの父親がどうなったかは知らないけれど、去り際のカヨちゃんは無言で聡美を睨みつけた。ありったけの呪いを籠めたあのまなざしを、聡美は今でも忘れない。そうして本来の標的を見失った風評の矛先は、しだいに残された父と聡美に向かっていった。
 妻に浮気をさせた、甲斐性のない夫。
 不貞な母から産まれた、インバイの血を引く娘。
 大っぴらにこそ伝えないだろうが、コソコソささやく親の会話を子供たちだって聞いている。〝さーちゃん〟だったクラスでの呼び名は、すぐに〝市ノ瀬さん〟になり、間を置かず話しかけてくる級友自体いなくなった。さすがに中学に上がれば騒ぎも風化したけれど、一度貼られたレッテルは簡単には剥がれなかった。中一の終わりには援助交際の疑惑まで流されたし、今でもサカリのついた一部の劣等生からあけすけな視線を向けられることもある。これが聡美を取りまく現状だ。もっとも、そんな猿のような男子たちにとってすら、〝やっかいな腫れモノ〟との接触は憚られるものらしいのだが。
「しょせん、現実なんて……」
 その程度だと呟きかけ、聡美はこめかみに手をそえる。
 つまらないことを考えたせいか、ふたたび〝あの頭痛〟がぶり返していた。
 本当に、どうしてしまったのだろう? 今日の自分は、やっぱりどこかが変だ。こんな境遇なんて、とっくの昔に受け入れているはずなのに。父がそう決めた以上、この町でやっていくと決めていたはずなのに。
(だって、わたしは――)
 なにしろ聡美は、ただの中学生なのだから。
 大人を黙らせる権力も、子供を味方につける人望も、力ずくで従わせる強さもありはしないのだ。みんな消してしまいたいと思うこともあるけれど、そんなこともできるわけがない。自分ではない〝他のなにか〟にでもなれるなら話は別だろうが。
 だから、早く家に帰ろう。
 父の作った夕飯を食べ、嫌なことはすべて忘れてしまおう。
 朦朧とする意識の中、ジンジンと渋る頭をふって歩道橋に目を凝らす。コの字型に上る階段の片隅には、すでにぼんやりと闇が落ちていた。
 このまま県道を向こう側に渡りきり、私道とまじわる路地を左手へ。団地の敷地内に入ってさえしまえば、公園の脇をすり抜けて最初にあるのが八号棟だ。人目を避けて三階までたどり着けば、それでようやく息がつける。
 聡美を問題児扱いする教師の目だって、晒しモノにする女子の目だって、いやらしい男子の目だって、そこまでは届かない。
 そう決心して踏み出した瞬間、ズクリと子宮が痛んだ。聡美は眉をよせ、下腹を押さえる。制服のスカートの奥から、熟した粘液と体臭の混じった、腐った香水のような臭いが立ち昇った。いつもよりだいぶ早いが、それは生理の予兆だった。聡美が女であることの証。母とおなじ、雌である烙印。
 なるほど、と聡美は納得する。鬱陶しい頭痛も、安定しない情緒も、これが原因だったのかもしれない。だとすれば、なおさら急がなければ。出血が始まって、制服を汚しては面倒だ。けれどその思いとは裏腹に、聡美の足取りはいっそう鈍くなる。
 たとえ家に帰っても、今日も父が〝まとも〟とは限らない。
 母に捨てられてから、ゆるゆると崩壊してゆく父……誰よりも家族を愛し、またそれを拠りどころにしてきた父……そんな父が、この排卵の臭いを嗅ぎ取ったらどうなるのだろう? もしかすると今夜も、あの現実逃避の儀式が待っているかもしれない。急に込み上げる不安が、階段を踏みしめる足を鉛のように重くした。すると記憶の奥底から、得体のしれない掠れた声がささやいてくる。
「なぁ……トンカラトン、って言ってみな?」
 ギクリとした聡美が我に返るのと、不意に木枯らしが吹きつけたのは、ほとんど同時のタイミングだった。

[ 2017年06月04日 07:44 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 05

 鉄製の玄関ドアの前に立つと、やはり中には父の気配があった。ほんの少しだけ逡巡した聡美は、音を立てないよう注意してドアを開ける。さっきの幻聴も気にはなったが、今は父の状態を確かめるのが先決だ。
 上がり框の先にはダイニングの入口が見えていて、すでに忙しく夕食の支度をする音が聞こえていた。ゆっくりと靴を脱ぎ、鞄を胸に抱いて近づいてゆく。おそるおそるキッチンの様子を窺うと、ふり向いた父がにっこりと微笑んだ。
「ああ、おかえり〝聡美〟」
「た、ただいま……」
 ちゃんと自分の名前が呼ばれたことで、ほっとして息を落とす。
 ……よかった、今日の父は大丈夫だ。
 それが確認できただけで、ひとまず安心できた。そうなるとおかしなもので、あれだけしつこかった頭痛も、嘘のように鳴りをひそめていた。気分もいくらか軽くなり、包丁をふるう父の手元をそっと覗き込む。下処理された牛すじ。丸のままのちくわ。練り物もいろいろ。半月切りの大根はたぶん、ガス台に用意されている米のとぎ汁で下茹でするところだろう。予想通りの、幸せだったあのころの味。
「は、はは、今夜はおでんでいいかな?」
「うん、お父さんのおでん……大好きだから」
「そうか、そうだよな」
 バツがわるそうな父の笑顔には、曖昧な笑みを返しておく。
 なぜなら献立がおでんになるのは、〝今夜は〟でななく〝今夜も〟だったから。それでも不器用な手つきで母の味を再現しようとする父に、涙があふれかけた。気取られないよう踵を返すと、聡美は背中越しに小さく声をかける。
「……その、毎日ありがとう」
「いいから、早く着替えてきなさい」
 照れくさそうに手をふる父には、きっと今の言葉は届いていない。
 明日の夕方にはまたおでんを作り、聡美に困り笑いでこう尋ねるのだ。
 ――今夜は、おでんでいいかな?
 聡美はこの二年間、そんな毎日をすごしている。毎晩父の作ったおでんを食べ、まったくおなじ世間話をくり返す。もっともそれは、図書館で見つけた小説がとか、昔読んだ詩集がとか、あたり障りない話題に限られるのだが。
 父のこころは、ずっとあのころに留まっていた。だとしても〝こっちの父〟でさえあってくれるなら、聡美はそれで幸せだった。
 大学講師である父は、このためだけに自分の講義を午前に集中させてくれている。市の郊外にある総合大学の分舎も、都内にある文系大学の本校舎も、かけもちしているふたつの職場、そのどちらもをだ。
 もちろん理由は、ひとり娘である聡美の面倒をみるため。
 教員の娘である以上、それがどんな意味かは聡美だって知っている。教授や助教授への出世の道も、そのための研究や学生の信頼も、すべてを諦めたということだ。そこまでして、聡美の居場所を守ってくれている。
 専門にしている文化人類学というのが、どんな学問なのかまでは詳しくわからないけれど、かつては習慣にしていた休日のフィールドワークすら、今は家事や聡美の相手をするためにやめてしまっていた。
 ただ、一度トラウマのスイッチが入ってしまうと……。
 とりとめもなく思考を巡らせて、その先を聡美は放棄した。不吉な想像をして、もし今夜も現実になったらどうするというのか。
 自室に戻ると、蛍光灯のスイッチを入れる。
 チカチカと点灯した白い光が、つつましい四畳半を照らし出す。
 強引に押し込んだベッドに、勉強机がわりのパイプデスクがひとつ。縦長のスリムな本棚には、教科書や参考書のほかに、いつの間にか集まった文庫や文芸誌が並んでいる。友達と話を合わせる必要のない聡美は、漫画の類はほとんど読まない。
 およそ中学生らしくない部屋だが、ここは聡美にとって最後の安全地帯だった。この殺風景な空間に身を置くだけで、全身の緊張が緩んでゆく。
 鞄を下ろし部屋着に着替えると、どっと疲れが出てベッドに倒れ込んだ。ゴロゴロした違和感はしつこく下腹部にまとわりついたが、ナプキンをする余裕もない。もうなにも考えるのが嫌になって、天井のクロスに目を泳がせる。
 やがて聡美は、うつらうつら眠りに落ちた。
 うたた寝の浅い夢の中で、聡美は小学三年生の子供に還っていた。
「ふぅん、包帯巻きの怪人ねぇ」
 興味深げに言ったのは、壊れてしまう前の父だった。ちょっと不満げに唇を尖らせる聡美の隣には、おなじく幼女のカヨちゃんがいて、期待に目を輝かせている。これは〝例の都市伝説〟のことを話したあの日の記憶だ。
「見た目は別として、話のディテールは通り物に似てるな」
 読んでいた本から顔を上げ、父は目を細める。パラパラとめくって示したぶ厚い文庫本の一ページには、異様に長い杖を斜に構える襦袢姿の老爺と、乱れた着物の日本髪を結った女の人が浮世絵タッチで描かれていた。たしかこの本は父のコレクションで、妖怪研究で有名な漫画家が描いた妖怪図鑑だ。
「とおり、もの……?」
「妖怪の名前さ。そういう民話や怪談を集めるのも、研究の一環だって言ったろ? 斬られた人は、ってクダリは派生形と思えなくもない」
 けれど得意顔で語り始める父の記憶は、どういうわけかノイズ混じりで再生される。妖怪と怪人……同様に……起源が……人間の脆さ……肩代わり……それに、痩せぎすで包帯巻きの……これは父の描いた……絵……ざらついた映像が復活すると、ともかく――と本を閉じ、父が聡美たちに向き直る。
「聡美はそれが気に入らないわけだ」
「だって、あんまり馬鹿馬鹿しかったから」
 ぷっと頬を膨らませた聡美が微笑ましかったのか、父は笑いながらつづける。
「まあ、わかるけど。この町の歴史は、教えたことがあったね?」
「……うん」
「じゃあ、そこにヒントがあるかもしれない」
 大学講師らしい小気味のいいテンポで、父の解説は進んだ。
 昔、とても大きな戦争があったこと。世界中を巻き込んだその戦争のお陰で、日本中が異常な活気と狂気につつまれたこと。
 戦争が泥沼の状態になったころ、この一帯にはたくさんの工場ができたそうだ。軍用トラックや戦闘機の部品を量産する無数の工場には、全国から労働力として人が集まってきたという。労働力や資材の運搬のため、線路が引き込まれ駅ができる。工員とその家族の居住区ができ、寮棟がつぎつぎと建設される。
 もともと荒れ野や田畑ばかりだったこの土地は、そうして市になった。
「といっても、点在してるいくつもの村を、無理やり合併させたんだけどね。そういうことが、当時の日本では普通に行われてた」
「それで、それでどうなったの!」
 無邪気に催促するのは、身を乗り出したカヨちゃんだ。聡美は微妙にずれてゆく会話に痺れをきらしたが、それを見透かしたように父が核心をつく。
「だから、都市伝説なんかも根強いんだな」
「……え?」
 いきなり結論を提示され、聡美は仰天した。一足飛びでいきなり結論に飛ばれると、人間はとたんに引き込まれるものだ。気がつくと聡美も、カヨちゃんとおなじように身を乗り出して話に耳を傾けていた。
「だってそうだろ? 住民が増えれば、より多くの物が必要になる。食べ物だって、着る物だって、それに娯楽施設だって」
「うん……」
「そうなると、お店ができて映画館ができて、病院なんかもできる。工場で働く人たちだけじゃなく、その人たちを相手に商売をする人が全国から集まってくるんだ。……ここまでは、言ってることがわかったかな?」
「……えっと、どうにか」
「よし。じゃあ、ここからが本題だ」
 満足そうに頷いて、父は自慢げに人差し指を立てた。話に興が乗ってくると、いつもやってみせる得意のポーズだった。
「いろんな土地から人が集まれば、自然といろんな文化も集まってくる。さて、聡美はどうしてだと思う?」
「……文化っていうのは、人の営みそのものだから」
「そう、よく覚えてたね。特に市の中心であるこの町はターミナルの役割も果たしてたから、生まれも育ちも違う人があふれ返って、ごった煮のような文化ができた」
「…………」
「やがて戦争が終わって工廠が解体されると、工場跡に企業や大学が入って、さらにその色合いが濃くなってゆく。工員の寮棟は公団に生まれ変わって、素性が異なるもの同士の情報共有……っていうと大げさかな? でもまぁ、そういう習慣が必須になった。そこで重要になってくる同期ツールが、噂話。どこそこで特売がとか、あそこの病院は腕がいいとか、そういう有用なものからデマや流言飛語にいたるまでね。人間の潜在的な恐怖や欲求を寓話化した、都市伝説もそのひとつだ。そんな歴史から、この町には〝噂が根づきやすい土壌〟というのがあって――」
 夢中になって話しつづける父に、「あぁ、またか……」と聡美は苦笑いした。
 身ぶり手ぶりをまじえ持論を展開する父は、いつの間にか当初の目的を忘れている。娘の疑問に答えるどころか、小学生にはとうてい理解できないような、小難しい言いまわしまで飛び出している始末だ。
 横目で盗み見ると、カヨちゃんもポカーンと口を開けていた。
 でも、これだっていつものこと。真面目で研究熱心な父は、頭もよくて面倒見はいいけれど、ちょっとマイペースなところがある。軽く肘でこづかれて隣をふり向くと、カヨちゃんも首を竦めていた。ふたりで顔を見合わせて、クスクス笑い合う。親友だったあのころの、人懐っこくてほがらかなカヨちゃんの笑顔。
 と――
「あなたの、そういう身勝手なところがもう限界なの!」
 そんな狂った母の声で、急に場面は暗転する。

[ 2017年06月10日 11:26 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 06

 半狂乱になった、見苦しい剥き出しの女……ああ、そうか。今度はあの時、母の不倫が発覚した、小学六年のころの記憶だ。
「そりゃ、たしかに最初は、そんな浮世ばなれしたところが素敵だと思った! 大学講師って肩書にだって、アカデミックな響きがあったわよ! なのに、実際はどう? 稼ぎは少ないし、出世だってしない! 研究研究なんて言って、休みになるたびフラフラどこかへいなくなる! 家だって、いつまでもこんな団地暮らしで――」
 父をなじり飛ばすその姿に、聡美は絶句した。
 取ってつけた不満。ありきたりなセリフ。言動のひとつひとつが自分本位すぎて、子供の聡美でも吐き気を覚えたほどだ。
「それでも、私は我慢したの! いつもニコニコ笑って、良妻賢母でいられるように一生懸命つくしたわ! それを、なに? たった一度の過ちが、そんなに許せない? 他の男の手垢がついたから? ほんのちょっと、穴の形が変わっただけじゃない!」
 髪をふり乱し、夢の中の母は叫びつづける。
「お願いだから、自分の妄想を押しつけるのはやめて! あなたが、家族に執着してるのは知ってる。世間に認められない焦りを、家庭って幻想で埋めようとしてることも気づいてる……けど、なんで私がつき合わなきゃいけないの? 女であることを無視されて、母を強要される苦痛が、あなたたちに理解できる?」
 そうわめいて迫ってきた母の口からは、腐った水槽の臭いがした。
 きっと腹の中に隠した本性が、そんな異臭を放つのだ……掴みどころのないまどろみの底で、薄ぼんやりと聡美は考える。
 誘惑に耐えられなかった、脆くて弱い母。
 それを全部なにかのせいにする、無責任で汚い母。
 どんなにつらくても、自分は母のようにはならない。自分は決して〝魔に刺されたりなんか〟はしない。そんなものは、ただの言い訳だ。自分を甘やかすことしかできない人間の、都合のいい世迷い事だ。でも……
 夢の奥のもっと深いところから、誰かがそっと訊ねてくる。
「……本当に?」
 カヨちゃん、これはカヨちゃんの声だ。
「あの女の血を引いてるクセに、よく言えるね」
「そ、それは……」
 冷やかに言い捨てるカヨちゃんに、全身の血が一気に引いた。だって、それこそ聡美の責任じゃない。不倫をしたのは聡美の母であって、聡美はなにもしていない。それにそれを言うなら、カヨちゃんこそあの父親の――
「ほら、もう人のせいにしてる」
「あ……」
 言葉を失う聡美の前に、憎しみを籠めたカヨちゃんの目が近づいてきた。
 キィキィと癇に障る金属音が、どこかから聞こえてくる。
「結局、さーちゃんの決意なんて、その程度だよ。エラそうなこと言っても、人に迷惑かけることしかできないんだ。あの女みたいに。……だったらもう、開き直っちゃえばいいじゃない。人間なんてみんな、被害妄想のカタマリなんだから」
 さあ、とカヨちゃんの手が伸びた。
 なぜかその手には、ボロボロの包帯が巻かれていた。
「だから、早く呼ぶの……あの名前を」
 嫌だ、それだけは絶対。聡美は懸命に耳を塞ぐ。その手のひらをすり抜ける声が、ギリギリと頭をしめつけてくる。
「どうせ、あの母親から産まれた子なんでしょ?」
「裏ではこっそり援助交際してるって、本当なのかしら?」
「やっぱり、血は争えないわよねぇ」
 嘘だ、そんなことしていない。もう限界だ、カヨちゃんの家みたいに引っ越そう? 新しい場所で、親子ふたりでやり直そう? けれどふり返った父の眸は、どこか遠いところに焦点を合わせたままだった。
「……なに言ってるんだ、聡美? もし、お父さんたちまでここからいなくなったら、帰ってくる時にお母さんが困るじゃないか」
 そうして父は、おろおろ泣き崩れた。
 母の名を呼びながら、駄々をこねる子供のように地べたを這いずりまわった。
「マサミ、マサミ……すまなかった、マサミ」
 聡美は耐えきれなくなり、ついに夢からも目をそらす。
 もがき、あがき、青い闇から現実の世界に浮上する。だがそこにも、やすらぎなど待っていなかった。もがいて掴んだのは、聡美に覆い被さっている父の髪。あがいて絡んだのは、聡美に割って入ろうとする父の足。目の前に、父の顔があった。
「ごめんな、〝マサミ〟」
 ――違う、それは母の名前だ。
 半覚醒の意識の中、聡美は息を飲む。しまった、父のスイッチが入っている。無駄だと知りながら、一応の抵抗を試みた。泣きじゃくる父は、お構いなしに聡美のスウェットをたくし上げる。すぐにブラはずらされ、胸があらわになった。まだ成長過程にあるその小ぶりな乳房に、父がむしゃぶりつく。
「マサミ……マサミ、マサミ」
 うわ言のようにくり返される名前に、自然と涙が滲んだ。
 いつどうやって、スイッチが入ったのかはわからない。もしかすると夕飯の声をかけにきた父の前で、聡美がなにか寝言を口走ったせいかもしれない。あるいは、やはり月経の血が放つ雌の臭いが……両腕で泣き顔を覆いながら考えるが、もう遅い。なんにせよ、今夜の父は〝あっち側〟に行ってしまった。
 あっち側の父は、聡美と母の区別がつかなくなる。
 その傾向が表面に現れたのは、聡美が中学に上がったばかりのころだった。
 今日のように不意の生理が訪れたその夜、聡美は汚したパジャマを洗うため風呂場へ向かった。すでに零時をまわっていて、家の中は静まり返っていた。
 寝ている父を起こさないよう、足音を忍ばせた。
 そんな闇の中に、パタリとなにかを捲る音がした。身を縮ませた聡美は、条件反射で音の元をたどった。厚紙同士が当たる、小さくて籠った音。聡美の部屋と隣接するリビングから、その音は聞こえていた。
「お、父さん……?」
 こわごわ声をかけてみたが、返事はなかった。
 代りにもう一度、パタリと音がした。
 意を決してリビングに足を進めると、床に座り込んだ父の背中が見えた。月明かりだけを頼りに、なにかを食い入るように見つめていた。
「……お父さん?」
 ふたたび声をかけても、反応はなかった。時間ごと止まったように微動だにしない父の背中に、聡美はそろそろと近づいた。肩越しに父の手元を覗き込むと、そこには床に広げた古いアルバムがあった。
 聡美の知らない、まだ年若い父と母が写真の中にいた。
 聡美はその時、自分が声を漏らしたかはもう覚えていない。覚えているのは、いきなり首だけで振り向いた父の口から出た言葉だけだ。
「どうした、マサミ。こんな時間に?」
 瞬間、心拍数が上がった。
 聡美を透かして母を見る父の目は、あきらかに正気をなくしていた。パニックになった聡美は自室に駆け戻り、朝まで布団を被って震えていた。投げ出してきた汚れたパジャマは、次の朝きちんと洗濯されていた。
 この儀式が始まったのは、それからすぐのことだった。
 はじめての時は、破瓜の痛みとショックでなにもできなかった。次の時は抗ったが、頭脳労働とはいえ父も男だ。女の、しかも子供の力で、止められるわけもなかった。回数が重なるたび、少しずつ行為はスムーズになった。性器が傷つくのを避けるため、身体が勝手に反応するということを、聡美はあとになって知った。
 これで、何度目になるだろう……。
 組み敷かれ全身をまさぐられるうち、聡美は諦めて抵抗をやめる。母の名前を呼びつづけながら、父は聡美のスウェットを剥ぎ取ってゆく。胸から腹、腹から下へと這ってゆく舌の感触に、身をこわばらせて耐えた。
 ほら、大丈夫。こうしていればあっという間だ。
 目をつむって、じっと我慢すればきっと。
 この前も、その前も、そうやってずっと凌いできた。不安に押しつぶされて決壊した父を、聡美は受け入れると決めたはずだ。だって、父は最後の家族だから。聡美の存在を許してくれる、唯一の人間だから。
 明日の朝になれば、いつもの父に戻ってくれる。それを信じて、侵入してくる父の熱を堪えた。内側を掻きまわされる執拗な痛みに、意識がまた遠のいてゆく。ベッドが軋む音に混じって、耳障りな金属音が響いてきた。錆びついた自転車のペダルを漕ぐような、強引で脅迫的な音だ。キィキィ、ぎぃぎぃ、キィキィ、ぎぎぎ……落ちて行った、今度は深い眠りの奈落で、輪光をまとって白刃が閃いた。

[ 2017年06月18日 09:34 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 07

 そしてその日から、父はあっち側に行ったきりになった。
 厳密に言えば微妙に異なるが、聡美にとってはおなじことだった。父は聡美をあの忌まわしい母とつねに認識し、〝頭の中の母〟とふたりの暮らしを始めたからだ。
 朝起きて、朝食の支度をする。
 ふたり分の弁当を詰めて、大学に出勤する。
 夕方には家に帰り、おでんを作って待っている。ふたりでおでんを食べ雑談をし、そのあとは夢中になって研究の話をする。……延々とくり返す一見変わらない毎日。けれど聡美の存在は、はじめからなかったようにそこから抜け落ちていた。聡美を母の名で呼ぶ父は毎夜のごとく求め、聡美の中で果てるようになった。
「じゃあ、いってくるよ。マサミ」
 ドア越しにかけられる声は、まるで呪いの文言だった。
 聡美はベッドの中で縮こまり、今朝も父のその声を聞く。もう学校も、体調不良を理由に何日も休んでいた。それでも、「お大事にね……」とだけ告げる電話口の担任が、聡美の絶望を余計に煽った。お前に手を差しのべるものなど、どこにもいないのだ。そう宣告されたようで、追い詰められた思考がますます深い闇に落ちてゆく。
 ――自分の居場所は、完全に消滅した。
 聡美がそれを思い知るのに、時間はいらなかった。明日こそは、明後日こそはと歯を食いしばってみても、父がこっち側へ戻る気配はなかった。父の中の小さな世界には、母しかいらないとでもいうように。
(うぅん、もしかするとお母さんでさえ……)
 考えるとまた涙があふれ、天井がぼやけて滲んだ。この最後の砦の四畳半ですら、もはや安全地帯ではなくなった。あのアルバムのころまで時間を巻き戻し、〝母と新しい家族を作ろう〟とする、壊れた父を待つ地獄の窯へと変わり果てたのだ。
 そう、新しい家族。
 おぞましい妄想に吐き気をもよおし、聡美はベッドから跳ね起きた。部屋を飛び出すとトイレに駆け込み、へたり込んで便器を抱える。用意された朝食も弁当も手をつけていない聡美の胃袋は、昨夜から未消化のおでんを吐き出した。
 ようやく、儀式の本当の意味が理解できた。
 聡美を母に見立てた父は、聡美と子供を作ろうとしている。
 欠けてしまった〝妻〟という記号を聡美で埋め、思い通りにならない過去を封印し、家庭を築くところからやり直そうとしている。
 結局、父が欲しているのは〝妻〟と〝子供〟という記号だけだった。
 それが聡美の母である必要はなく、聡美である必要もない。無条件に自分を認め、自分を擁護してくれる場所。それが父にとっての〝家庭〟であり、妻も子供もそれを構成するただのパーツにすぎないのだろう。
 今さら突きつけられた真実が、聡美のこころを打ちのめした。父が守っていたのは、聡美の居場所などではない。父が縋っていたのは、自分のためだけに存在する、空っぽでひとりよがりな城……その残り滓だったのだ。
 ――お願いだから、自分の妄想を押しつけるのはやめて……。
 不意に母の言葉が蘇り、また吐きそうになった。
 お母さん……お母さん、お母さん。
 思わず出かかった声は、左手を強く噛んで押し殺す。今さら母に救いを請うなど、許されるはずもない。では、誰に?
 惑えば惑うほど思考はもつれ、聡美はトイレに蹲ったまま途方に暮れる。
 あからさまに奇異な行動でもあれば、周囲も気づいたかもしれない。だが父の言動は聡美の件を除けば比較的まともだ。訊ねれば自分の名前も年齢も答えるし、勤務先も大学名まで正確に言う。職場の人づき合いが乏しかったことも災いし、大学でも父の異変が悟られた様子はなかった。もとより近所づき合いが断絶しているのだから、私生活はなおさらで、聡美以外に事実を知るものはいない。
 改めて現実を認識し、聡美の背筋に悪寒がはしった。軽いヒステリーを起こして、左手に立てた歯に力を籠める。
(誰でもいい、助けて――)
 切実にそう念じた時、ほらね、と母の声がした。動揺する聡美が弾かれたように顔を上げると、空け放したままのドアの先に人影が見えた。短い廊下の奥に佇むその影は、リビングから漏れる日差しでおぼろげに揺らぎ、母かどうか判然としない。
 けれど影法師は、はっきりと母の声で言う。
「あなたは、いつだってそう。……自分勝手に人を軽蔑して、困るとすぐに手のひらを返す。本当に、いい性格してるわよね」
 え、と言葉を詰まらせ、聡美は影に目を凝らす。
 影は嘲笑うように、ゆらゆらと揺れた。
「でもまあ、自業自得かしら。あなたが自分でまいた種だし」
「違う、わたしは……」
「なにもしてないって? あはは――」
 心底おかしそうに明滅すると、影は一歩分だけ聡美に近づいた。
 それが現実のものでないことくらいわかっていたが、聡美はふり払うことも目をそらすこともできなかった。
「なんでも誰かのせいにする、って、私のこと馬鹿にするけど……あなたのそれは、どこか違うの? なにもしないのは、なにかしたのとおなじなの。まさかとは思うけど、知らなかったって被害者面すれば、全部許されると思ってるわけじゃないわよね?」
「そ、それは……」
「あぁ、思ってるんだ。気持ちわるいわね、それ」
 呆れ果てたようにまた影は揺らぎ、聡美は耳を塞いで首をふる。嫌だ。なにも聞きたくない。なぜ幻覚にまで、自分が責められなくてはいけないのか? それでもそれを許さないというように、影の母はさらに一歩分近づいてくる。
「教えてあげましょうか? あなたが酷い目に合うのは、あなたが弱いから。弱さを言い訳にして、強くなろうとしないから」
 ゆらり、また一歩分。
「だから、このまま破滅するの。弱いあなたは、今度も晒しモノになる」
 影が喋るたび、聡美の視界が点滅する。
 視界が点滅するたび、影との距離が縮んでゆく。
「実の父親と関係をもった娘として、死ぬまで蔑まれつづけなさい。だって仕方ないわよね? 今までの噂と違って、これは事実だもの。あなたの弱さがまねいた、否定しようのない事実……でも、それが嫌なら」
 気がつくと、影は目の前に迫っていた。手を伸ばせば届くほどに。
 その位置まできて、はじめて影の全貌がわかる。だがそれは、予想に反して母のものではなかった。蹲った聡美の目線にある、節くれた膝。そこからつづく、筋張った腿。骨盤の形がはっきり出た腰の上には、肋骨の浮いた胸があった。男……それも、全身を血脂じみた包帯で巻きしめている。そしてその上にある顔が――
「任せてしまいなさい、彼に」
 掠れた母の声を合図に、すとんと聡美の鼻先に突き出された。
 包帯の隙間から覗くまっ赤な目が、じっと聡美を見据えてくる。聡美は条件反射で顎を引き、息を詰めて目を見開いた。
「ひ、ぃ……」
 いきおいで仰向けに倒れた聡美は、そのまま白目を剥いて昏倒した。薄れてゆく意識の中で、奇妙な歌声を聞いたような気がした。トン……トン……トンカラ……トン……トントン……トンカラトン……それは母の声のようでもあり、またカヨちゃんの声のようでもあり、誰の声でもないようにも思われた。

[ 2017年06月24日 08:21 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 08

 聡美はそれから、ひとりで家にいられなくなった。家の中にひとりでいると、どこから母の影……いや、あの怪人に囚われるか、わからなくなったからだ。
 もちろんそれは、聡美が生み出した幻覚なのだろう。
 けれど、玄関の隅にクローゼットの陰。家の中にできたほんのわずかな闇の隙間からでも、いつも男は聡美を見つめていた。たとえば風呂で髪を洗っている時、夜眠ろうと目をつむった時、閉じたまぶたの裏の些細な闇からも、緋色に充血した目は聡美を捕まえようとする。そんな妄想が、聡美の頭には住みついてしまった。
 本当に馬鹿馬鹿しいことだと、自分でも思う。
 ただ、それが無性に怖かった。
 都市伝説の怪人など、現実には存在しない。そのくらい承知していても、どうしても不安が消せなかった。捕まって斬られれば、自分が自分ではなくなる。まじめにそう信じ始めている自分の頭が、なおさらに恐ろしくなっていた。
(だから……)
 また聡美は、父を頼った。
 ひとりでさえいなければ、怪人はそれ以上近づいてこない。
 父を恐れて母に助けを請い、今度は母が怖くて父に縋る。そんな自分が惨めで汚らわししかったが、突き上げた衝動は抑えようがなかった。
 はじめて幻覚が見えたあの日、聡美は父が帰るまでトイレで気を失っていた。揺り起こされた聡美は悲鳴を上げ取り乱し、父の首に両腕で縋りついた。その視線の先――廊下の端にできた闇から、まだ怪人はじぃっと聡美を見据えていた。その恐怖から逃れたい一心で、ついに聡美は自分から父を求めた。
 わけもわからず、その場で父とまぐわった。
 トイレから半身を投げ出し、父の上でつたなく腰をふった。
 行為が終わると、いつの間にか怪人は消えていた。放心状態の聡美を宥めると、父は噛み痕から血が滲んだ聡美の左手を治療してくれた。左手に包帯を巻かれながら、聡美は必死に母と怪人のことを話した。要領を得ない聡美の説明に困惑しつつも、父は泣きじゃくる聡美を抱きしめて言った。
「大丈夫……マサミのことは、ちゃんと守るから」
 母の名で呼ばれた不快感より、幻覚をふり払えたことで安堵した。
 そうして聡美も、被害者から加害者になった。
 加害者になった聡美は、もう父を責めることはできなかった。一度でも自分から求めてしまった事実が、うしろめたさになって聡美にのしかかっていた。あれほど嫌だった父との姦通も、今では聡美自身の罪となっていた。
 少なくとも、聡美の中では。
(それもやっぱり……)
 自分が弱いせいだからなのかと、聡美は自身に問いかける。
 教材のテキスト音声のような教師の声は、機械的に耳を滑っていた。これは数学の授業だったろうか、それとも化学の授業だったろうか。
 あれから数日。聡美は仕方なく、学校に出るようになっていた。父が帰るまでの空白の時間、どうにか人目のある場所で凌がなくてはならない。たとえ〝いないモノ〟扱いだったとしても、ここならその心配もいらないだろう。思案はしてみたが、経験値の低い聡美にはそれしか思いつかなった。
(……でないと、またあの怪人が)
 ――任せてしまいなさい、彼に……。
 まとまらない頭の中に、母の声が混じりさらに迷走する。自分はこれからどうすればいい? 担任に打ち明けて、懺悔でもするか? あるいは交番に駆け込み、父の犯されたと泣きわめくか? 考えるほど混乱は増し、思考が霧に埋もれてゆく。焦れて左手を噛みかけ、包帯に阻まれ気を取り直す。薄汚れた包帯の下で、傷はじくじく疼いた。無為な時間はたんたんとすぎ、答えは出ないまま午前の授業が終了する。
 給食の時間になると、配膳台が運び込まれ慌しく机の移動が始まった。
 申しわけ程度に班の横面だが、聡美も周りにならって机を合わせた。楽しげに響いてくるざわめきも、今だけはこころ強い。
 きのこご飯に、肉じゃが。ししゃも焼き、のりあえ、瓶の牛乳……粘土の味しかしないそれらのメニューを、聡美は目を伏せたまま黙々と口に運ぶ。班から無言の圧力はかかっていたが、それも気にしている余裕はなかった。あの赤い視線に怯えながらひとりで父の弁当を食べるより、この方がはるかにマシだった。ただ。
 父との爛れた生活が放つ、饐えた臭いを嗅ぎ取られてはいないか。それだけが気になって、聡美は闇雲に粘土の給食を詰め込んだ。
 授業がすべて終わると、もう陽は暮れかけていた。
 手元の携帯で確認すると、サブディスプレイに表示された時刻は四時少し前。ほんの数日で、日中がどんどん短くなる。怯えるだけの生活は、おなじ速度で聡美の精神も化膿させた。黄昏時。たそがれどき。……その由来が〝たそかれ〟だと教えてくれたのは、父だったろうか。高台から赤く染まった町を見渡し、ぼぅっと考える。
「たそかれの意味は〝誰そ彼〟。江戸時代は街灯もネオンもなかったから、この時間帯になるとすれ違うひとの顔も見えなかったんだな。それで、誰そ彼……ただし、声をかけてくるのが人間とは限らない。だから――」
 ああ、そうだ。たしかそんな呼び方も教えてくれた。
 ――逢魔時。
 夕焼けは、禍時を連れてくる。
 ならば聡美にとっての災いは、父なのか? 怪人なのか? いずれにしろ、この急な坂を下った先にそれは待っているのだろう。
 堀とは名ばかりのドブ川を越え、住宅地の迷路の中へ。ひとつ角を曲がると、不意に下校中の生徒の声が途切れた。耳を澄ますと、死角の向こうにざわめきは遠のいてゆく。目の前にはさらに角がふたつ。どちらも先の見通しはわるい。
 聡美は静かに唾を飲んだ。
 掠れて消えかけた〝止まれ〟の路面標示の上に、薄っすら闇がひそんでいる。
 息を殺してその角をやりすごすと、狭い道なりのカーブの先に、もうひとつの闇がじっとりと待ち構えていた。
 もしそこに、緋色の目が待っていたら?
 それよりも今、首筋に包帯巻きの腕が伸びてきたら?
 ありもしない気配に怯えながら、聡美は背後をふり返る。やはりそこには、傾斜地に並ぶ夕暮れの家々だけがひっそり佇んでいた。そうしている間にも、じりじりと陽は沈んでゆく。ふり返り、角を曲がる。角を曲がって、またふり返る。
 ようやく住宅地を抜けたところで、キィキィとペダルを漕ぐ音がした。
 飛び出しかけた心臓を押さえてふり向くと、時代錯誤な豆腐屋の自転車が、気の抜けたラッパを鳴らしながら聡美を追い抜いて行った。
 ほぉ、と震える息が大きく漏れた。
 乱れた鼓動を落ち着かせながら、ふたたび県道を目指す。
 きっと、父は帰っている。
 たとえ聡美を待っていなくても、そこには帰れる場所がある。
 結局、聡美にはそれしか頼るものがなかった。父との関係が明るみに出れば、父は職を失い、聡美も路頭に迷うことになる。施設に入ることになっても、そんなものは居場所がなくなるのとおなじだ。父も、聡美も、聡美たちを追い詰めた奴らも、みんなみんな消えてしまえばいいが、それだって現実には不可能だ。聡美さえ我慢していれば、それで丸く収まるのだ。だから、急いで帰ろう。父の作ったおでんをふたりで食べ、今夜も人形になって呪われた儀式をやりすごそう。
 ほら、もう歩道橋だって見えてきた。
 この階段を上りきって、県道を渡って向う側へ。
 足元はだいぶ暗くなったけれど、まだ陽は落ちきっていない。コの字型に折れた踊り場を抜ければ、団地までひと息だ。
 けれど――
 やはりそいつは、じぃっと見つめていた。
 歩道橋の階段の天辺から、踊り場の聡美を見下ろしていた。
 だらりと垂らした日本刀が、鈍色に残光を照り返す。全身の包帯は、膿とも脂ともつかないシミでどこと言わず薄汚れている。
「ひッ……」
 反射的に出かかった怪人の名は、喉の奥で押し殺した。
 夕日に染まってなお赤い目が、聡美の視線と絡み合う。顔中の包帯から覗く、白目も黒目もない血色の眸だ。聡美は思わず身を引いて、硬直したまま後退る。心臓がギシギシ痛み、左手で制服の胸元を握りしめる。
 その左手を追って、ぐるりと赤い視線が動いた。
 なぜ、と思う間もなく聡美は身を翻した。今きた階段をひと息に駆け降りると、県道に沿って走り出す。嫌だ、嫌だ、嫌だ。わたしばっかり、どうしてこんな目に……問いかけると、ひさびさの頭痛と一緒に母の声が返ってきた。だから言ったでしょう? いや、そうじゃない。これはカヨちゃんの声か……ふり払おうと夢中で走るうち、ほどなく進んだバス停で折よくバスが捉まった。行き先も確認せずに飛び乗った。
 ブザー。アナウンス。閉まる乗車ドア。
 息をきらせて顔をあげると、乗客の視線が揃って聡美に向けられていた。混雑というほどではなかったが、車内の座席はすべて埋まっていた。その無数の視線に囲まれて、聡美はどうにか安堵の息を漏らす。これだけの人目があれば、怪人も追ってはこれまい。そう確信しながら、乗客の間をぬってよろよろと最後尾まで進む。
 すると一段あがった後部座席の窓側から、
「だ、大丈夫かい。お嬢ちゃん……顔色わるいけど」
 と、白髪の男の声がかかった。
 困惑しながら席を譲る男の申し出は、遠慮せずに受けた。それを待っていたように、バスはゆっくりと夕暮れの町に向けて発車する。
 そっと肩越しにふり返った歩道橋には、すでに怪人の姿はなかった。
 窓にそえた左手の包帯が、なぜか緩んで解けかけていた。

[ 2017年07月01日 08:25 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 09

 やがてバスは市街地を経由し、郊外の新興住宅地を目指してゆく。
 県道をそれ、私鉄の線路を潜るアンダーパスを通過するころには、町はすっかり宵闇の青につつまれていた。
 帰宅時間も近づいたのか、バス停のたびに乗客も増えてゆく。
 聡美はただぼんやりと、それを眺めていた。
(大丈夫、大丈夫――)
 ここにはもう怪人はいない。それに冷静になってみれば、あれはただの幻覚だ。どんなにはっきり見えても、実際に襲ってくるはずはない。だから、家に帰ろう。早くバスを降りて、遅れを取り戻そう。でないと、また父が取り乱す。今度こそ、帰る場所がなくなってしまう。それはわかっていても、頭痛で鈍る頭が行動に移すのを拒絶した。
 たまに流れる車内アナウンスも頭に入ってこなかったが、バスの終点ならおおよそ見当はついた。国立病院の前を通るこのルートなら、国道沿いの県営公園を境に、バイパスに入るか父の勤務するキャンパスに着くかのどちらかだ。
 降りるなら、県営公園の前。
 公園といっても、かなり敷地は広い。テニスコートもあれば、野外ステージもある。市役所沿いの二区画を使用した、県外にも名の知れた公園だ。敷地内には市立図書館もあって、聡美も休日にはよく利用している。
 とにかく、早く引き返さなければ。そうは思うが、一向に気力がわいてこない。
(わたしは、なにをしてるんだろう……)
 聡美は自分の反応に戸惑いを覚えつつ、窓の外に視線を投げる。すでに渋滞の始まった対向車線は、テールランプのまっ赤な連なりが駅までつづいていた。仮に今すぐ折り返しのバスを捉まえても、とても夕食には間に合わない。行き詰ってバスのシートに背をゆだねると、当たり前のように不吉な疑念が首をもたげてきた。やっぱりわたしの頭は、おかしくなってしまったのだろうか?
(違う、ちょっと疲れてるだけだ。きっとそうだ)
 必死に否定してみるが、もつれた思考は堂々巡りするだけだった。
 じゃあ、この頭痛は?
 さっきの気味わるい怪人は?
 どちらにしろ、幻覚から逃げ出す時点でどうかしている。そんな気もして、そら寒くなって肩を抱いた。そもそも、こんな都市伝説がなぜ怖いのか? 子供だましのおふざけじゃないか? 考えるほど頭痛は酷くなり、脳裏にノイズのような言葉が蘇る。
 ……人間は、弱くて脆い……こころのバランスが……そんな時の……緊急回避……昔から……妖怪……都市伝説……通り物……。
 ――通り物?
 たしか妖怪の名前だ。ということは、これは父の声。
 なにか記憶に引っかかっている。引っかかってはいるが、どうしても思い出せない。思い出さなくてはいけない気もするし、決して思い出してはいけない気もする。もどかしさから逃れるようにふたたび窓の外へ視線をそらすと、ふと窓ガラスに映った自分の姿に気づいてぞっとした。憔悴して青褪めた顔。焦点のない虚ろな眸。その表情は、我ながらこの世の住人のものとは思えなかった。
 まるで幽霊か、それとも……
 ろくでもない妄執に囚われかけ、慌てて聡美は首をふる。
(あれは幻覚、幻覚なんだ。だから――)
 ……早く呼ぶの、あの名前を。
 頭痛の痺れにまぎれて、カヨちゃんの声がした。どうしてカヨちゃんは、そんなことを言うのだろう。怪人の名を呼べば、救われるとでもいうのか。それより頭が痛い。ならばいっそのこと……そこまで思い詰めた時、ポーンとチャイムが鳴った。アナウンスされたのは、ルートが分岐する公園前のバス停の名前だった。
(……そうだ、ここで降りなくちゃ)
 とっさに聡美は、降車ボタンを押した。バスはしばらく走って、冬枯れたケヤキが並ぶ歩道に横づけで停車した。
 やっとのことで重い体を引き上げると、乗客を掻きわけて降車口へ向かう。ふらつく足でステップを降りた聡美の頬を、冷たい風がひと撫でした。バスを降りたのは、聡美ひとりきりだった。それと引き換えに、またバスはぞろぞろと行列を呑みこんでゆく。
 ハザードのオレンジに照らされた顔は、みんな疲れていた。
 仄暗い並木道は、それで不意に人気が絶えた。
 そしてブザーと共にバスが走り去ると、聡美はとうとう悲鳴を上げる。ようやく灯り始めた街灯の下を、わき目もふらずに駆け出していた。なぜなら、渋滞を挟んだ通りの向こう側――バスの影から現れた、折り返しのバス停の頼りない電飾の隣に、無言で聡美を見つめる怪人の姿があったからだ。

[ 2017年07月08日 16:20 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 10

 あとは、どこをどう走ったのか覚えていない。いつの間にか公園に飛び込んでいた聡美は、遊歩道を滅茶苦茶にぬって、気がつくと図書館の前に立っていた。
 肩を喘がせ、鞄を抱きしめそのシルエットを見上げる。
 常緑樹の生垣で公園から仕切られた、サイコロを重ねたような独特の形――無意識に知った道をたどったのか。ただの偶然なのか。どちらにしろ、暗がりに浮かぶ見慣れたタイル張りの建物が、今はとても頼もしかった。
(よかった、ここなら……)
 ひとまずの安息を得たせいか、ほっとして上気した頬が緩む。
 慣れない全力疾走で肺は破裂しそうだったが、恐怖から解き放たれた安堵でそんなものは気にならなかった。北風にさらわれる落ち葉が捌けるように、さぁっと頭痛も引いていった。そのころにはもう、自分が正気かどうかもどうでもよくなっていた。
 ――とにかく、一刻も早く中へ。
 はやる気持ちを抑えながら、聡美は図書館の自動ドアを潜る。平日の夕方ということもあり、館内に思いのほか利用者は少なかった。それでも人の気配があるだけで、本当にありがたかった。まずは、ここで気を静めよう。混乱した頭を、もう一度整理しよう。そんなことを考えながら、エントランスからロビーへ入る。周囲の目に気をつけながら、大きく深呼吸をひとつした。
 どこか埃くさい、読み込まれた古い紙の匂い。
 嗅ぎ慣れたその匂いを胸いっぱいに吸い込むと、ほんの少しだけ落ち着いた。荒んでいた精神が、ひさしぶりに凪ぐのを感じた。
(そういえば、図書館にくるのなんて何週間ぶりだろう)
 どうにか巡り始めた頭で、なにげなくそう考える。
 ずっと張り詰めていたものが、ふっと途切れるのがわかった。
 もともと聡美が読書を始めたのは、例の噂が広まった小六のころからだった。理不尽な孤独をまぎらわすため、気になった本は手当たりしだいに読んだ。もっともそれは、小説や詩集が大半だったが、だから聡美は自分を愛読家だとは思っていない。毎週末をこの図書館ですごしたのも、わずらわしい周囲の目をさけるためだった。
 けれど知らぬ間に、聡美にとってここは安らぎの場になっていたらしい。ここしばらくは、そんな時間すら奪われていた。
 さっきまでの身の竦む恐怖も忘れ、しみじみと館内を見渡してみる。
 受付カウンターには、よく顔を見る女性職員がいた。今年の春先の配属以来、聡美の顔を覚えているらしいその若い司書は、あら、という表情をしてから、にこやかに聡美に目礼した。聡美も戸惑いながら、伏し目がちにお辞儀をする。
 余計な人間関係を嫌う聡美は、もちろん一度も彼女と声を交わしたことはない。でも今はその気遣いが、なんだか無性に嬉しかった。
 受付の対面には視聴覚コーナーがあって、インターネットスペースに大学生らしい人影がポツポツと見えた。受付で申請すればノートパソコンの貸し出しもあったが、アナログ派の聡美はここには用がなかった。
 あとはその先に、会議等に使う多目的スペースが。
 こちらはこの時間だと、利用者がいる様子はさすがにない。すべて馴染み深い変わらない風景――ほんの数週間ぶりなのに、なぜかだかとても懐かしい気がした。
 そのお陰もあってか、じょじょに聡美も平静を取り戻してゆく。ロビーを横ぎり二階への階段を上るころには、現実の……といっても怪人は幻覚だが……忌まわしさからも解放され、足取りもだいぶ軽くなっていた。
 二階は開架図書になっていて、ずらりと書架が並んでいる。
 やはりこちらにも、さほど人はいなかった。児童書を含むキッズコーナーが無人なのは当然のこと、一般向けの閲覧席にも間を置いて二、三人――大きな机をそれそれぞれが独占する形で、資料を広げてレポートらしき作業に没頭している女子大生風や、本を積み上げて読みふける、暇つぶしらしき若者たちが確認できるだけだった。
 書架の間にはまだ誰かいるかもしれないけれど、階段側からでは死角になってよくわからない。少なくとも、気配は感じられない。
 とりあえず、何冊か見繕って……。
 そう考えた聡美は、詩集の棚に足を向ける。混乱した頭を覚ますには、物語より純粋な言葉の結晶の方が適しているような気がしたから。
 ――と、その時。
 鞄の中で断続的に振動音がした。驚いて飛び上がりそうになった聡美は、あっ、と小さく声を漏らして立ちつくす。そういえば携帯の電源をきっていなかった。いつもなら、絶対に忘れたりなんかしないのに。
「え、えっと……携帯」
 初歩のミスに狼狽えながら、もそもそと鞄を探る。
 ようやく携帯を取り出してため息をつくと、閲覧席から露骨な咳払いが聞こえた。レポートに熱中していた、さっきの女子大生風だ。それが口火になって、連鎖するように視線が集中する。聡美はおどおどと頭を下げると、手近な書架の間に飛び込んだ。
「あぁ……」
 慌てて確認してみると、父からのメールが数件ほど着信していた。
 手早く携帯を開き、タイトルにだけ目を通す。内容は読まなくても把握できた。『電車が止まっている』『夕飯は遅くなる』。最初の何件かは、聡美がバスで呆けていたころのメールだ。数秒だけ迷って、聡美は返信せずに電源をきった。
(なにも、このタイミングで……)
 今さら罪悪感はなかった。
 どうせ父がメールしたのは、聡美ではなく記号になのだから。気がかりがひとつ解消した安心感よりも、不意を突かれたことに苛立った。
 一瞬、父に対してなにかが点灯した。
 昏い昏い、こころの奥底から産まれた、赤黒く澱んだなにか。
 わたしがこんな思いをしている時に……どうせ必要なのは人形のくせに……急速に膨らんだ激情に動揺し、はっとして我に返る。やめよう。わたしは記号だ。人形なんだ。こんな恐ろしい感情は……気を取り直して、書棚を見上げる。とっさのことで気づかなかったが、参考図書の棚のようだった。
 一般的な辞典や図鑑に混じって、宗教や民俗学の書籍も並んでいる。
 ――民俗学。
 父が専門としている分野。
「まったく……」
 思わず口に出て、首をふって詩集の棚に足を向ける。見るともなしに棚のつづきに視線を滑らせてゆくと、端の一角で目が留まった。雑学のラベルが貼られた一群に、見覚えのあるぶ厚い文庫がぽつんとあった。なんの変哲もない灰色の背表紙だが、ひねりのない安直すぎるタイトルも薄っすらと頭の隅に残っている。
『図説・現代妖奇考』
 記憶の中の――あるいは夢の中の、父が読んでいた愛読書だ。
 ぞわりと、なにかが背筋を這う感覚があった。
 恐怖や嫌悪ではなく、予感のようなもの。思わず手に取って、聡美は閲覧席へと向かった。閲覧用の机は書架から窓よりにあり、窓際にはカウンターになったひとり掛けの席が並んでいる。ちょっと迷っていると、咳払いの女子大生風と目が合った。その睨むような視線に気圧され、机から一番離れたカウンターの奥の席に座った。
 席に着くと、ひと息ついて表紙を撫でる。
 暗い深緑をバックに、黄色でタイトルが印刷された表紙だ。
 裏表紙には〝妖怪から都市伝説へ〟のうたい文句と、著者の持論を云々という簡略な内容説明が書いてある。……都市伝説。その文字が目に飛び込んできたとたん、聡美は生唾を飲み込んだ。どうする。やはり読むのはやめようか。
 今なら、素知らぬ顔で本棚に戻すだけ。
 なにくわぬふりで、詩集の棚に行って本を選び直せばいい。でも。
(うぅん、これもなにかの縁だ)
 そう覚悟して、聡美は表紙に手をかける。それにひょっとすると、あの幻覚の原因がなにかもわかるかもしれない。妖怪。都市伝説。こころの闇。父はそれを、人間の営みそのものだと言った。そこにどんな繋がりがあるか皆目見当はつかないけれど、わずかでもその辺りに触れることができれば、聡美自身の異変にも説明がつくのかも。
 わけもなくそんな気がして、ゆっくりと表紙をめくる。
 なにかに憑りつかれたとすれば、この時なのかもしれない。

[ 2017年07月14日 18:01 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 11

 著者が漫画家だけあって、本は絵図……というより、イラストつきで妖怪や都市伝説について解説した、とてもわかりやすい内容だった。
 入門書の位置にあたるのか、知識の薄い聡美にもどうにか理解できた。
 メインになるのは、やはりイラストつきの妖怪や怪人の解説だったが、まずはじめにおおまかな〝妖怪〟の説明があり、つづいてその役割が記してある。まだ科学という灯りが世界を照らしていなかったころ、その代りに〝万物の説明〟をつけるために生まれたのが妖怪だと書かれている。
 たとえば砂地でもない森の中で、風もないのに砂が目に入った時。
 それが誰かひとりの体験なら、さした問題にもならないだろう。科学がなかった時代でも、「まあ、不思議なことがあるものだ」で済まされるに違いない。けれど同一の時間、同一の場所、同一のシチュエーションでそれが何度もくり返されると、ほんの少し状況が変わってくる。現代でも〝理解不能な現象〟が身近につづいた場合は、それがどんな些細なことでも人は不安に思うはずだ。
 なにかよくないことの、前兆ではないのか?
 自分たちは、このままここにいて本当に大丈夫なのか?
 そんな時、人は必ず情報を同期して〝現象に形を与えよう〟とする。今の時代ならネットで。一昔前ならテレビやラジオで。集団ヒステリー、プラズマ、ブロッケン現象……とにかく集められるだけの情報を統合して、当面の安心を得ようと奔走するはずだ。
 理解できない、ということは。それだけで不安だ。
 ないはずの砂が目に入った。その程度の日常の違和感でも、積もり積もれば得体のしれない不安に変わる。
 現代ならそれも、気流やなにかの関係で樹の上に砂が堆積し――とか説明もつくはずだろうけど、あいにくとそんな常識がない時代なら? 募った不安は恐怖になり、恐怖は錯覚や幻覚を産む。それは聡美も、我がこととして知っている。
 ましてその時代、暗がりは真の闇だ。
 現代人ですら闇の中には、ありもしない気配を感じたりする。当時の人たちの身の上で考えれば、なおさらそれは大きいだろう。なにしろこの国の歴史を紐解くと、〝姥捨て〟や〝間引き〟は、どこにでもあった普通の慣習だ。
 でも普通だからといって、それをして平然といられたわけはない。
 闇はそんな負い目の影を、こころの奥底から引きずり出す。
 その中で、砂を目に食らったある人が、森の闇に〝山に捨てた己の老母〟の気配を感じ取ったとする。ぞっとして冷や汗をかいたその人は、逃げ帰って、寝ずに待っていた女房に夢中でその話を聞かせるだろう。
「あれはおっ母だ。きっと俺を恨んで、化けて出たに違ぇねぇ」
 もしかするとその話は、宵っ張りの子供たちも聞いていたかもしれない。娯楽の少なかった時代だ、次の日の井戸端や遊び場は、その話で持ちきりになったかも。そして父の言葉ではないが、かつてコミュニティの情報同期の手段は〝噂話〟だった。
 中にはひとりくらい、「そういやうちの亭主も……」と言い出したかもしれない。
 そうなると、「うちもうちも」と連鎖が始まる。
 そうやって噂が伝播するうち、情報から〝どこの誰べえの母親〟は消えて〝老婆〟という単語だけが残ってゆく。
 気配を感じたのがひとりであれば、〝母親の幽霊〟なのだろうが――それが複数人ともなれば、もう砂をかけるのは〝得体のしれない老婆〟だからだ。やがてそれが浸透してゆくと、現象には『砂かけ婆』という名前がつけられる。
 まずそれが妖怪誕生の第一歩目だと、その本には書いてあった。
 恐らく著者の独断もおおいに混じっているだろうが、人間心理や緊急回避などとややこしいことを並べて煙に巻かれるより、聡美はよほど素直に納得することができた。
(つまり、姿形を与えて不安を遠ざける?)
 そこで一旦顔を上げ、聡美は窓の外の景色に視線を投げる。
 昼間なら公園の広場を見下ろせる二階の窓も、今は鏡のように反射して、意識をしなければ映り込む聡美の姿の方に目がゆく。
 ガラスの向こうの闇と館内の照明が、そう作用している。見えなければ希薄になってしまう自分への意識も、この状態だとよく感じ取れる。顔色はどう? 髪の乱れは? 具体的に形がわかることで、対処法も方針も見えてくる。
 それで復調することも髪が整うこともないが、見えることでなぜが安心する。
(そういう、ことなのか……)
 たぶん厳密には違うのだろうが、聡美は勝手にそう解釈した。現象に形と名前を与えて目途をつけることで、〝わからないもの〟を〝実態のあるもの〟へと変換する。実態さえあれば、得体がしれなくても対処も予防もできる。たとえば聡美は、小さいころ宇宙や時間のことがわからなくて漠然と畏怖を感じていた。
 宇宙はどこまでつづいているのか?
 その外側があるのなら、外側とはどこまでつづくのか?
 そもそも、宇宙ってなに?
 アリの巣だのトンネルだのといわれても、さっぱり理解が及ばなかった。時間と空間がといわれても、その時間とはなんなのか?
 今日の前に昨日があって、昨日の前に一昨日がある。そうやって遡って、どこから時間が始まっているのか? 考えると意味もなく不安になって、夜も眠れなくなったことだってある。けれど誰も、聡美が納得できる形で答えを出してはくれなかった。
 思い切って父に訊ねると、盛大に笑われた。
「科学ってのは、そういうはっきりしないものに〝概念〟っていう輪郭をつけるただの定規だ。はっきりしないのに、そこにあったらモヤモヤするだろう? だから、とりあえずの形と名前をつけて安心する。宇宙も時間も、本当にあるのかは誰も知らない。知らないから、〝そういうものだ〟で納得するのが一番だ。まあ、難しく考えるな」
 そう言われて、長年の異物感がぱっと解消された。
 あやふやなりに実態が見えたことで、不思議な安堵感を得たのを覚えている。聡美が畏れたのは〝わからないこと〟自体で、宇宙や時間ではなかったのだ。その証拠に、今ではどちらも怖いとは思わない。
 そう考えてみれば、科学もオカルトもたいした違いはないのかもしれない。「科学には実証と結果が――」と聞いたこともあるが、それだって〝科学からの目線〟で構築された理屈によるものだ。オカルトにはオカルトの理屈だって、あるにはあるだろう。第一その科学だって、身近なことも明らかにはできていない。
 脳の仕組みも八割は解明されていないというし、病気にしたって対処法がわかっていても原因が不明なものはたくさんある。それでもみんな科学を信じ、説明を受ければ安心する。昔はそれが信仰であり宗教であり、別の根拠で動いていただけ。
(……妖怪も、その一部)
 アニメやゲームの影響で、聡美は妖怪をキャラクターのように思っていた。
 実際、江戸時代から先はそうなったと、本には書いてあった。元来『妖怪』とは、文字通り〝妖しく怪奇な現象〟をさす言葉で、いわゆる〝お化け〟限定ではないらしい。擬人化をともなわない、不可思議な現象……今でいうと異次元や超能力といったものも、そこには含まれるそうだ。ともあれオカルトが、人間が生きる上での安全装置だったことはわかった。知ってみると、意外と興味深いものだった。
 そして解説は、〝都市伝説〟へと進む。
 いよいよだ。そう思って、もう一度唾を飲み込む。その瞬間、
「ははぁ、これはまた――」
 唐突に声がして、聡美はビクリと顔を上げた。反射的に目を凝らした窓ガラスには、馬鹿みたいに呆けた自分と、微笑みながら立つ老人の姿が映っていた。……いつの間にうしろに? 慄きながら体ごとふり向くと、はずみで横滑りした椅子の足がギギッと不快な音を立てる。離れた閲覧机の方から、また女子大生風の咳払いが聞こえた。
 老人は、困った顔で閲覧席を見やると、
「すみません、ご迷惑をかけてしまったようで」
 そう言って、見事に禿げ上がった頭をぽりぽりと掻いた。とっくりのセーターの上にねずみ色のスーツを着た、人のよさそうなお爺さんだ。
 着ているものはどちらも着古して多少よれていたが、どこか品のいい感じがした。右手には生成りのコートをかけていて、左手にはステッキ――というか、木目調の節だった杖をついている。それが妙に印象的だった。
(誰だろう……)
 顔見知りかもとも思ったが、やはり見覚えはない。そもそも話しかけてくるような知り合いは、今の聡美にいるはずもない。
 困惑した聡美は、おずおずと老人の問いに問いで返す。
「いえ……あの、なにか?」
「ああ、重ねてこれはどうも……いきなりこんな爺ぃに話しかけられたら、そりゃお嬢さんもびっくりしてしまいますなぁ」
 言いながらもわるびれた様子はなく、「私はただね」と、老人は聡美の手元の本を指さした。一連の所作があまりにも自然で、ついついペースに巻き込まれた。
「その図鑑、お嬢さんみたいな今時の子が読むのは珍しい……というか嬉しくてねぇ。いやいや、その歳で妖怪に興味を持ってくれるとは。これもテレビのお陰なんですかな。私も愛読書なんですよ、それ。もう少し上級者になったら、柳田國男や井上円了なんかも読んでみるといい。将来有望だ」
 聡美は、はぁ、と答えるしかなかった。
 それは構わないが、いきなり言われてもリアクションに困る。
 老人もそれで空気を察したのか、あぁこれは、とくり返すと頭を下げた。聡美もつられて、小さく目礼をする。それにしても、どこにいたんだろう? さっきまで、お爺さんなんて見かけなかったのに。本棚の陰にでも隠れて、見えなかったのだろうか? それとも気づかないうち、閲覧室に移動してきていたのか?
 そんなことを考えながら見上げていると、老人は「じゃあ、ごゆっくり」とにこやかに微笑んだ。聡美もなにか返そうと口をパクパクさせたが、老人はいやいやと手をふって踵を返した。ところが、その去り際に、
「おや……」
 肩越しにふり向いた老人の目が、ふたたび図鑑の上で止まる。ほんのちょっと嬉しそうに眉を上げると、ぽつりと言った。
「お嬢さんが知りたかったのは、〝伝怪〟の方ですか」
「……えっ?」
 聡美は思わず聞き返した。老人の表情も気にはなったが、それより耳慣れない単語を聞いたからだ。伝怪……語呂や老人の目が追った先からみて、都市伝説のことだろう。聡美の手元の図鑑は、都市伝説についてのページが開きっぱなしになっている。
「あの、伝怪って――」
 呼び止めるともなく声をかけると、それが口癖なのか「あぁ」と呟いて、老人は照れくさそうに聡美に向き直った。
「どうも、度々失礼を。伝怪ってのは、私が勝手につけた呼び名でして。お察しの通り都市伝説の怪人のことです。伝説の〝伝〟に、怪人の〝怪〟。仕事がらこの手のものを扱うことが多かったもので、妖怪と区別するためにちょっと。はい」
 仕事といっても、昔のことですが――
 そう付け足して、老人はまたぽりぽりと頭を掻いた。
 ということは、学者か学芸員……それとも大学関係の? 自分の身近な環境で考えたせいか、聡美が連想したのはそういう職業だった。訊ねると老人は悩ましげに首を傾げ、「まあ、そんなところですかな」とだけ答えた。
「それはそれとして。お嬢さんが調べているのは、その伝怪の方では?」
「そう、なんですが……」
 聡美は、どう説明していいかわからず口籠った。
 いきおいで聞き返してしまったものの、まさか〝幻覚の怪人〟への対処法を調べていたとは口が裂けても言えない。けれど老人は、この図鑑を愛読書と言っていた。さっきまでの口ぶりからしても、どうやら妖怪が専門らしい。ということなら、もしかして。
 思いきって、相談してみようか? そんな考えが聡美の頭をよぎる。でも初対面の人にこんなトンデモ話、いくらなんでも非常識だろうか。
 さんざん思案して、やっと出た質問は、
「その、お爺さんは詳しいんですか? 都市伝説……伝怪にも」
 という、ぼんやりしたものだった。

[ 2017年07月22日 19:44 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 12

 それでも根気よく聡美の発言を待っていた老人は、ははっ、と愉快そうに笑い、コツリと杖を鳴らして一歩分だけ聡美に近づいた。
「そこまでとは言いませんが、詳しいですよ。たぶん」
「……じゃあ」
 詰まりかけた喉から無理やり押し出し、わらにも縋る思いで訊ねてみる。
 どうしても口にできなかった、あの名前を。
「知ってますか? 怪人トンカラトン、って……」
 その時、一瞬だけ老人がニタリと笑ったように見えたのは、気のせいだろうか? 間を置かず「ああ、ああ」と相槌を打った老人は、大きく二度三度頷きながら、あっけらかんとした口調でこう言った。
「知ってますよ。トン、トン、トンカラトン……って、やつでしょう? そうですか、またマイナーな伝怪を。その図鑑にも、載ってなかったのでは」
「……えっと、はい」
 再確認こそしていなかったが、聡美はすぐに頷いた。
 老人ほどでないかもしれないけれど、父もこの図鑑は熟読しているはず。その父が知らなかったのだから、当然ここには〝トンカラトン〟の項目はないのだろう。もとから承知の上だったが、つい老人の口調がおかしくて、聡美の口から本当にひさしぶりにくすりと笑いが漏れた。この老人と話していると、なぜだか気分が晴れる。父のことも幻覚のことも気にならなくなってくる。もう少しだけ老人と話したくなった聡美は、それで決心して図鑑をカウンターに置く。
 今度はしっかり老人に向き直ると、軽く深呼吸してからきり出した。
「よかったら、教えてもらえませんか。その伝怪のこと」
 老人の頬が、嬉しそうに緩んだ。
「ええ、構いませんよ。お嬢さんは、どこまでご存知です?」
 快い老人の返答に、聡美は小さく息をついた。さっそく椅子を薦めると、老人はまぁまぁとそれを辞した。少し戸惑ったが、老人がそれでいいのなら仕方がない。対面で老人を見上げる形で、聡美はぽつぽつと話を始めた。
 わずらわしいことを嫌う自分が、なぜそんな気になったかは聡美にもわからない。
 ただ今は、そうしなければならない気もしていた。
 老人の人柄がそうさせたのかもしれないし、本当は聡美が〝まともな人間との会話〟に飢えていたのかもしれない。
 なんにせよ二年半――自分を殺してきた鬱憤を晴らすように、聡美は夢中になって馬鹿馬鹿しい伝怪の話をした。途中で女子大生風の咳払いが何度か聞こえたが、そんなものもどうでもよかった。気がつくとなにかに憑りつかれたように、聡美はひと通りの知識を老人に披露していた。
 まず、トンカラトンは全身に包帯を巻いている。
 日本刀を持って、突然現れる。
 トン、トン、トンカラトン……と歌いながら自転車でやってくる。
 出会うといきなり、「トンカラトンと言え」と言ってくる。
 注文通り「トンカラトン」と言えば、なにもしないでそのまま去ってゆく。
 言わないと、持っている日本刀で斬りつけられる。
 要求される前に、「トンカラトン」と呼んでも斬りつけられる。
 斬られると、自分も「トンカラトン」になってしまう。
 そして、左手に包帯を巻いておくと……
 そこまで一気に捲し立てて、聡美は大きく息を吸った。知らぬ間に、身ぶり手ぶりまでつけて喋っていた。そのくらい、老人と話をするのは楽しかった。自分がまだこんなに饒舌に話せるのかと、少し驚きもした。だから、
「なるほど、それで――」
 そう呟いた老人に左手を指さされた時、心底どきりとした。
 いきなり冷水を浴びせられた気がして、聡美は慌ててその左手を背に隠す。
「ち、違うんです。これは、その……」
 隠した左手には、解けかけた包帯がそのまま巻かれていた。
 言われてみればたしかに、これは伝怪除けのおまじないだ。だから歩道橋で、あいつはこの左手を見て……だけど実際は違う。これは聡美と父の爛れた関係の証。それを老人に見透かされた気がして、聡美は目を伏せた。
 老人はただ、うんうんと頷いて、ことさら陽気に話をもとに戻した。
「まあ、それは冗談として。だいたいそんなもんです。もともと民話や伝承。正式な、というと語弊がありますが……まだそういう形で残されていない伝怪は、あやふやなものが多い。中でもこのトンカラトンってやつは、特に情報が少ない」
「……そうなん、ですか?」
「ええ、ええ、そうなんですよ」
 あたり障りない対応で様子を窺うと、老人は何事もなかったように小首を傾げる。聡美の適当な相槌にも、満面の笑みで答えてくれた。その反応で、聡美は胸を撫で下ろす。萎みかけた気持ちが、また息を吹き返した。勘づいているのかいないのか、老人は無用な詮索をするつもりはないらしい。
 そのこころ遣いが、また嬉しかった。
 聡美はますます、この老人との会話に引き込まれていった。
「補足するとすれば、〝助けてやるとお礼に包帯をくれる〟だの〝おまじないの包帯はそれじゃなきゃいけない〟だの……そうそう、〝たまに集団で現れる〟なんて尾ヒレもありましたが、概ねお嬢さんのお話が全部ですよ」
「はぁ……」
「ふむ。その反応からすると、がっかりさせてしまいましたかな? でもね。伝怪が面白いのは、そこからまた〝新しい噂話〟が産まれるところです。たとえば……ええっと、トイレの花子さんはわかりますか?」
「はい、それは有名ですから」
「よかった。その花子さんですが、これは伝怪としてはかなり古いものになります。雛形になった〝三番目の花子さん〟が一九五〇年ごろの出自ですから、伝怪の元祖とされている赤マントとも同級生だ。話自体は――」
「それも知ってます。〝トイレの三番目のドアを〟ってやつ」
「それです、それです。なら端折るとして――ところがこれ。全国に広まると、いろんなパターンができると共に、『もとになった事件』なんて噂まで出まわってくる。まあ実際にそれらしき事件もあるにはあるんですが……不気味なもんで、伝播するうち『もとになった事件』自体のバリエーションが増えていくんですな。中には〝伝怪の設定そのままの事件〟なんてものまで出てくる。花子さんのもとになった、女の子の亡くなり方。亡くなられた舞台と状況。女の子の名前が違うってこと以外、どれを取ってもそっくりだ。私も気になりなしてねぇ。ほうぼう歩いて、調べてみた」
「じゃあ、伝怪もやっぱり妖怪みたいに……」
 思わず聡美が身を乗り出すと、さて、と声をひそめながら老人も身を屈めた。
 落語かなにかでも聴いているような、小気味のいいテンポ。巧み、というか。老人の話し方は、聡美のツボをついて飽きさせなかった。本筋から外れるようで、核心をついているようでもある。まるで、昔の父と話してるような……。
 そんな錯覚も手伝い、長々と溜める老人に痺れをきらして声をかける。
「それで、その事件は……」
 すると老人は、ぴしゃりと額を叩いて言った。
「デマでした!」
 タイミングも絶妙だったが、くしゃりと破顔した老人につられて、聡美はクスクスと笑っていた。老人は満足そうに頷くと、「そうそう、女の子は笑顔じゃないと」と言って杖を鳴らした。その音がなにかの合図のように、聡美のこころに沁み込んできた。
 本当に清々しかった。こんなに楽しい時間は、どれくらいぶりだろう? こころの底から思いながら、聡美はしばらく笑いつづけた。
 聡美が笑い終わるのを待って、老人は先をつづける。
「さんざん苦労して事件の詳細な地域を絞り込んでみれば、そんな事件の記録は警察にもない。どころか、その町内にそんな番地すらなかった。まったくの無駄足ですな。と、そうやって〝伝怪に真実味を出す〟ために、新たな設定として〝次の伝怪〟が産み落とされる。これはすでに完成された妖怪では、なかなか味わえない醍醐味です。民間伝承から神話性が失われた、都市伝説ならではのものでしょう」
「へえ……」
「まあ、その辺はその図鑑にも書いてあります」
 あとでじっくり読むといい。そうつけ足して、老人は悪戯小僧のように笑った。抑えめな照明の加減か、瞬間、老人の顔が暗く陰ったようにも見えた。
 それから老人は、ただし――と人差し指を立てる。
 はい、と背筋を伸ばし、聡美も聞く態勢を改めた。打って変わった老人の口調は、いよいよここから本題だよ? そう言っているようだった。緩急をつけられたことで、聡美はすっかり老人の調子に乗せられていた。
 コツコツと杖を二度鳴らして、老人の講義が再開した。
「それでも伝怪には、妖怪と変わらない側面もあると思うんですよ」
「……それは?」
「うぅん、上手く言葉にできませんが、救済のための役割。とでも言いましょうか? たしかに神話性は失われた……ただ失われたからこそ、妖怪より浮き彫りになった、人間の本性に関わるもの。たとえばそう、妖怪は畏怖や教訓の具象化だった。そこから解放されたからこその、剥き出しになった欲求の受け皿とでもいいますか……そんな役目が、伝怪にはあると思うんです」
 そうですなぁ、と言って老人はぽりぽりと額を掻く。
 しばらくそのまま考える間があって、今度は聡美もおとなしく待った。これはさっきのような溜めではないだろう。きっと。
 待っているとポンと額を打ち、老人はカウンターの図鑑をさす。
 返ってきたのは、予想外の答えだった。
「そうだ、お嬢さん。それの〝通り物〟の解説を開いてみてください。たぶん、五百ページ辺りに載っていたはずだ」
「……え?」
 初めは聞き間違いかと、聡美は自分の耳を疑った。ざわ、と首筋を撫でてゆくものがあった。「とおり、もの……?」そう老人に聞き直してみると、「そうです、通り物」と老人はこともなげに答えた。
「でも、それって妖怪の名前なんじゃ……」
「ほほぉ、通り物も知っている。これは、本当に将来有望だ」
「いえ、そういうことじゃなくて」
「まあまあ。変だと思われるでしょうが、説明はちゃんとしますから」
 その方が早いですし、と老人は促すが、聡美は躊躇せずにはいられなかった。
 通り物……これは、記憶に刻まれた呪いの一部だ。
 父に彫り込まれた、禍の文言だ。
 ついつい鈍る手に、老人の表情が訝しげに曇る。「どうしました?」と尋ねられ、聡美は返答に困って「ああ、いえ……」としか答えられなかった。もし今、このページを開いたら? それで、よくないものが開放されてしまったら?
 だとしても、もう向き合うしかないだろう。
 それに今なら、この老人もついている。
 ここまできたのならと覚悟を決め、聡美は老人に背を向けカウンターに向き直る。静かに深呼吸をして、ゆっくりと指定されたページの付近を探してみる。
 老人の言う通り、目的の解説は図鑑の真ん中辺りにあった。
 乱れた和服の女性と、杖をついた不気味な老爺のイラスト……白髪の老爺は、柄のない薄汚れた着物を羽織っている。遠い記憶のまま切り出された、得体のしれない浮世絵風の図。聡美は息を殺して、じっとそれに目を凝らす。
「まずは、読んでみてください」
「……はい」
 老人に勧められるまま、聡美は解説を読み進めていった。
 内容を掻い摘むと、次のようなものだった。
 時代は江戸。ある女房は、ぼんやりと借家の庭を眺めて亭主の帰りを待っていた。
 すると夕暮れ、いつの間にか庭先に、白髪の老爺が立っている。ニヤニヤ笑いながら長い杖に縋る、気味のわるい老爺だった。しかも季節は秋だというのに、着ているのは薄汚れた長襦袢一枚だ。顔も土気色で、とてもこの世のものとは思えない。
 女房が身構えると、つっと老爺が近づいてくる。
 とっさに女房は両眼を閉じ、うろ覚えのお経を唱えた。
 心を静めてお経を唱えつづけ、そっと目を開いてみると、すでにそこには老爺の姿はない。女房は、ほぅっとため息を落とす。
 ところが間もなく、数軒先の屋敷で騒ぎが起きた。聞けばその家の細君が、狂って刃傷沙汰に及んだそうだ。ぞっとした女房は、先刻の老爺の姿を思い出す。あれはきっと、よくないものだ。人に憑りつき狂わせる、通りすがりの魔物だ。
 ――通り物。通り悪魔。
 一説には、縋っているのは杖ではなく槍だともいう。こころの弱いものは、その槍で突かれるのだ。魔に刺されてしまうのだ。現代でいう『通り魔』の由来も、ここにあるのかもしれない。そう、解説は結ばれていた。
「……読み終わりましたか?」
 また絶妙のタイミングで、老人が聞いてくる。
 小さく頷き、聡美は図鑑を閉じた。
 目をつむり、今読んだ内容を反芻する。夕暮れ。魔物。魔に刺される……なにかが聡美の頭の中で、ぎしぎしと音を立てて繋がり始めた。また現実と妄想の境目が、曖昧になってゆく。それともさっきから、ずっと夢でも見ているのだろうか? ざらついたテレビ画面のような、ノイズだらけの映像。じょじょに焦点が定まると、唇を尖らせる小学三年の聡美の話を、父は興味深そうに聞いている。
「うぅん、こんな感じかな……?」
 聡美が差し出した色鉛筆を取って、父はすらすらと雑な絵を描き出した。
 包帯を全身に巻いた、気味わるい怪人の絵だ。
(……これはあの幻覚の)
 上手いのか下手なのか、勝手なアレンジを加えた父の想像図は、微妙にねじくれて歪んでしまっている。それが逆に、生理的な嫌悪を掻き立てた。聡美とカヨちゃんが学校で聞いたより、何倍も何十倍も……。
 すると今度は、耳の奥で母の声がした。
「ごめんなさい、魔が刺しただけなの」
 不貞が発覚した時の、呆れかえる言いぐさ。その虫唾がはしる言い訳を、小六の聡美は首をふって拒絶した。弱い母はいつも誰かのせいにする。魔物のせいにして、父のせいにして、最後は聡美のせいにする。わたしは絶対、そんな風になるもんか。魔に刺されたりするもんか。叫んだのか呟いたのか、自分でもよくわからない。けれどその答えを待っていたように、どこかでコツコツと杖が鳴る。そして、
「どうです? 通り物……似ているでしょう、例の伝怪に」
 過去の父の言葉に、老人の声が重なった。

[ 2017年07月29日 18:26 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 13

「まあ、見た目は別として、話の造形がって意味でねぇ。通り掛けの魔にヤられると、あてられて人が変わってしまう。それこそ〝別のなにものか〟にでもなったみたいに……説教くさいところを抜かせば、本当にそっくりだ。
 と、そこで先般のお話です。
 ……おや。
 なんのことかって? いやですね。役割ですよ、伝怪の役割。救済のための、って、あれですあれ。そうそう、妖怪と伝怪のおなじ側面――ってやつですなぁ。よかった、忘れられてなくて。それじゃあ、ずいぶんと横道にそれてしまいましたが。このトンカラトンと通り物を例にして、ご説明しましょうか。
 まずは、通り物。
 お嬢さんもご承知のように、こっちの方は妖怪だ。妖怪である以上、なんらかの意味がある。この話だとさしずめ、不可解なことをした人間の〝行動原理の説明〟。といったところになりましょうか。今なら〝発達障害〟だの〝ストレス性ナントカ〟だの、いろいろと病名もつくんでしょうが、あいにく精神医学なんて便利なモンは、この時代にはまだなかった。あれが確立されたのは、十九世紀の終わりころですからねぇ。
 世の中には、こんなおっかないものがいるよ。
 だからつねに、気を静めて注意しなさい。
 お経なんてのはまぁ、たいがいの魑魅魍魎には効きますが……それでもちゃんと、おまじないまで用意してある。じつに懇切丁寧な対策と方針だ。そんな風に妖怪は、人間のために悪役を買って出てくれていた。〝人間が勝手に狂った〟のに、それがあたかも『自分たちのせい』だと言わんばかりにですよ。人間っていうのは、昔からそうして〝自分はわるくない〟と言い張るモンです。これはもう、立派な救済措置ですなぁ。
 ――ところで。
 お嬢さんは、どう思います? 見ていた女房と狂った細君。この話で救われたのは、いったいどっちなんでしょう。
 いえいえ、難しく考える必要はありません。直感で答えてもらって結構ですよ。……ああ、はい。それなら〝魔に刺される〟のを逃れた、女房の方ですって? 狂った細君の方は、あてられて罪を犯したから。なるほど、そりゃそうですな。教訓を旨とする妖怪譚ですから、それはまっとうなお答えだ。
 でもね、私はこんな風にも思うんですよ。
 難こそ逃れたものの、女房も通り物には行き会っている。
 ということは、本当は女房にも〝狂ってしまいたい理由〟ってのが、こころのどこかにあったんじゃないかってね。お嬢さんも知っての通り、煎じ詰めれば妖怪なんてのはただの概念だ。でなけりゃ、最初から姿が見えるいわれもありませんから。
 そうなるともしかして、救われたのは狂った細君の方なんじゃ――そんな気も、してきたりしませんか?
 あはは、ええ、ええ……当然これは、私の勝手な言い分です。
 どんなに文献をひっくり返したところで、そんな話はこれっぽっちも出てきません。だけどね、私はやっぱりそう思ってしまうんですよ。女房にも細君にも、おなじように狂ってしまいほどの鬱屈があった。ものの話ではこの女房、借家住まいをしている理由は『火事で焼き出されたから』なんて言われてますしねぇ。
 その上、亭主は女房をほったらかし。
 これじゃあ、ストレスだって堪り放題だ。
 人間のこころなんてのは、元来とっても脆いものです。
 とんだ不幸に見舞われたあげく、銭もなければ救いもない。そんな欝々した思いを抱えながら、なんの気力もなくぼぅっと庭を眺めて亭主を待つ。どんな目に合ったって、なんの保証もない時代だ。一寸先は闇みたいなものでしょう。帰りを待つうち、いっそのこと亭主を道連れに……なんて不穏なことも、女房の頭をよぎったかもしれない。
 で、そんな時ですよ。
 荒れ放題の庭先に、不気味な老爺が現れる。
 もちろんこれは、女房のこころの闇の投影です。現実にそこに立っていたかもしれないし、立っていなかったのかもしれない。さぞかし女房は、驚いたことでしょう。もともと品行方正で生真面目な女房は、はっとして我に返る。きっとあれはわるいものだと決めつけて、対策を練る。ここでいうのは、お経というおまじないですな。
 気を静めて、というよりは。
 そうすることで、自然と〝気が静まった〟んでしょう。
 目を開くと、老爺の姿は消えていた。当たり前です。これは女房の気の迷い……弱ったこころが見せた、幻覚なんですから。
 それでも老爺――通り物は、女房のこころのうつし鏡です。
 女房が望んだからこそ、そこに姿を現した。
 たしかに、気丈に振舞ったお陰で、女房は罪を犯さず済んだかもしれない。教科書に載せるようなお話なら、これでめでたしめでたしだ……とはいえ、このあと女房はどんな人生を歩んだんですかねぇ。
 亭主は真面目に働いて、暮らしは立ち直ったんでしょうか?
 女房の抱えた闇は、無事に晴らせたんでしょうか?
 ぼっとすると、素直に妖怪に身を任せて狂っていた方が――なんてのは、まあ、詭弁ですがね。でも、そういう〝裏の解釈〟も、妖怪にはあるんですよ。これだって、ちゃんとした救済だ。狂った細君にしても、細君にヤられた人にしても、それはもう『憑りついた魔物』のせい。それで言い訳も諦めもつく。偉い学者さんにすればとんでもない冒涜でしょうが、私なんかはそう思いますよ。
 妖怪は現象ですから。
 現象は、善悪を気にしません。
 被害者も加害者も、傍観者だって均等に救うんです。
 ところが時代が流れて、世の中は文明の灯りに照らされた。おっと、失礼。これは万物の説明が、科学や医学でされるようになった……という意味ですな。
 それで、妖怪はお役御免です。よく『妖怪は闇の住人』なんていわれますが、あの闇は概念上の〝闇〟ということでもあるんですな。とにかく、そんなわけで妖怪は世の中から駆逐されて、ただの偶像になった。神秘性も威厳もなくして、キャラクターに。……それでも人間のこころからは、決して闇は祓うことができない。そこで出番になるのが、神性も畏怖も取り除いた、新たな魔物……妖怪に取って代わった、伝怪。だいぶお待たせしましたが、今ここでお話しするなら。そう。
 怪人、トンカラトンです。
 ほほぉ、これはこれは。
 そんなに身を乗りだして聞いていただけるとなると、私としても話し甲斐があるってものだ。……うん? それはいいから、早く先を? ああ、すみません。ついつい、嬉しくなってしまいまして。といっても、先程ご説明したように、こいつは極端に情報量の少ない伝怪です――多分に、私個人の見解が混じるところはご容赦ください。
 ……では。
 まずはじめに注釈しておきますと、妖怪と違って伝怪というのは嘘っぱちだ。
 いやいや、そんなに怖い顔をしないでください。現象としてという意味ではなく、〝その寓話の前提条件として〟という意味合いでのことですよ。だって、そうでしょう? もう時代は科学全盛だ。どこにも〝得体のしれないもの〟が入る隙間なんてのは、本来ならあるはずありません。ですから、伝怪は『嘘だけどこういう話があるよ?』と、そうやって楽しむ娯楽です。くり返しになりますが、〝本来は〟ね。
 ただその分、非常に柔軟になった。
 妖怪なら〝裏の解釈〟としてしか仕込めなかった一面も、『デマである』ことを前提にすることで、受け手に直接選択させることができる。善だの悪だの、小難しい理屈を織り込む必要は、ハナっからなくなったんですな。
 トンカラトンは、夕暮れ時にただそこに現れる。
 斬られてしまえば、その人間はトンカラトンになってしまう。
 そこには理由も目的も、善悪だっていらない。
 伝怪だって、現象なんですから。
 でもひとつだけ言えるのは、やっぱりトンカラトンも〝その人が必要とした〟からやってくるんです。そして、その人に言い訳する機会を与えてくれる。『トンカラトンになったんだから、仕方がない』ってね……うしろ暗いこころの闇も、犯した罪も、全部全部、肩代わりしてくれるんですよ。
 たとえばそう、いつか女性に乱暴した芸能人なんてのがいましたが。
 取り調べで言ったそうじゃないですか、『襲う欲求は襲うことでしか満たされない』ってね。もちろん、そんな理屈は許されるはずもない。とてもじゃないが、まともな人間だったらこんな勝手なことは言えるものじゃない。
 けどね。
 だから救済はいりませんか?
 病院にいけば、そりゃあ適当な病名はつけてくれるでしょう。更生するためのプログラムも組んでくれるでしょうし、場合によっては薬だって処方してくれるかもしれない。それでも彼には、烙印は押されたままだ。罵られて生きるのは当然としても、医学や科学に任せておいてはどこにも逃げ道は作ってくれない。
 人間っていうのは、身勝手でこころが脆いものですからね。
 救済がなければ、またきっと壊れますよ。
 壊れてしまえば、何度でも被害者が生まれる。ならそこに、安全装置をつけてしまえばいい。『魔が刺したんだ』『だから自分はわるくない』っていう具合にね。
 ……ああ、いえ。別に乱暴を正当化してるわけじゃ。
 ただ救済のないところには、反省も贖罪もないんです。あるのは、限界まで追い詰められた〝開き直り〟だけでしょう。文明のお陰でうわべだけ綺麗になった世の中は、負い目のある人間を容赦なく糾弾しますから。
 ――自分たちは、当事者でもないクセにねぇ。
 ふむ、それならわかる気がすると……お嬢さんは、呑み込みが早いですなぁ。ますます将来が楽しみだ。とはいえね。そんな連中にしたって、いざ自分の身がとなればなにかに救いを求めようとするモンです。
 科学じゃ説明できない、得体のしれないなにか……。
 病院じゃ治してくれない、わけのわからないなにか……。
 ひょっとすると、そのせいかもしれません。
 神も仏も、妖怪すら廃れた世の中に……いまだに根強く、伝怪なんてものが生き残っているのは。まあなんですな。名前を変えようが形を変えようが、人間のこころの闇はいつの時代も変わらない。
 トンカラトンも、通り物も、だからきっと起源は一緒なんですよ。救われたい、助かりたい……いっそ、なにかのせいにして壊してしまいたい。
 とかくこの世は、生きづらいですから。
 そういう弱いこころを掬い取る、救済措置なんでしょう……はい」

[ 2017年08月05日 11:01 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 14

 老人の言葉は、ゆっくりと聡美の隅々に広がっていった。
 こころだけではなく、体中全体に。耳から脳へ。脳から心臓へ。心臓から胸、肩、手足へと、赤黒い血液と一緒に沁み通ってゆく。
 そうか。そうなのか。よかったのだ、あれで。危うく聡美も、図鑑の女房とおなじように決めつけてしまうところだった。捕えにきたのではなく、救いに……だから母もカヨちゃんも、任せてしまえと言ったのだ。
 夢うつつのまま考えながら、ガラスに映った老人を見上げる。
 老人は、うんうんとにこやかに頷いている。
 静かに目を閉じ、これまでのことを思い返す。聡美を捨てて去った母も、聡美に呪いの視線を投げつけたカヨちゃんも、理不尽な風評で聡美を苦しめた連中も、聡美を記号扱いして穢した父も、そして――そんな扱いを、甘んじて受け入れた弱い自分も。すべてが馬鹿馬鹿しくなって、自然と笑みがこぼれた。ああ、本当に晴れやかな気分だ。こんなに爽快なのは、何年ぶりだろう。
 こころに立ち込めた霧が、一斉に退いてゆく。
 その向こうの暗闇から、包帯巻きの腕が手まねきをする。
 と、そこで――
「……あの、すみません」
 背後から急に、声がかかった。なにかに怯えたような、少し震えた女性の声。
 はい、と軽やかに答えると、聡美は目を開く。夜闇を背負った窓には、受付にいた女性職員が映っていた。いつもの愛想のいい笑顔ではなく、不気味なものを見るような青褪めた顔で、やや遠巻きにガラスの中の聡美を覗き込んでいる。
「ええっと、なにか……?」
「いえ、その……」
 聡美がにっこり微笑むと、女性職員は口籠った。
 閲覧席の方からは、ひそひそささやき合う声が聞こえてくる。
 そういえば、お爺さんは?
 さっきまでそこに立って、聡美と話をしていたのに。
 不思議に思った聡美が振り返ると、ひっ、と声を殺して女性職員は身を引いた。構わず辺りを見まわすが、やはり老人は見当たらない。職員に驚いて、いなくなってしまったのだろうか? うっかりして、名前を聞くのを忘れてしまった……つらつらそんなことを考えていると、表情を凍らせた女性職員から、たどたどしく警告の言葉が漏れた。やっと絞り出したような、引きつった声だった。
「他の方のご迷惑になるので……館内ではお静かに」
 それだけ言い残して、女性職員は逃げるように去ってゆく。
 聡美はきょとんとしたまま、瞬きをくり返す。
 しばらくじっくり考えて、ここが図書館だということを思い出した。いけない。話に夢中になって、とんでもないマナー違反をしてしまった。なるほど、それで老人は職員の姿を見て慌てて逃げてしまったのか。
 勝手に納得して、のろのろと閲覧席を見渡してみる。
 聡美と目が合いかけた利用者たちが、慌てて顔を背けた。
 まあ、やってしまったことは仕方ない。聡美はぺこりと閲覧席に頭を下げると、鞄を抱えて開架図書をあとにする。
「……まったく、ひとり言なんて」
 その背中には女子大生風の呟きも届いていたが、特に気にはならなかった。今さら他人の目なんてどうでもいい。誰がなにを言おうと、聡美の目的は果たされた。あの老人のお陰で、こんなに気分が軽くなったのだから。

 住宅街の停留所にバスが着くころには、辺りは真っ暗になっていた。
 どこか弾んだこころ持ちで、聡美は顔を上げてみる。
 寒々と澄み渡った空には、月も星もない。家々の明かりをつつみ込む、漆黒の夜。魔物が自由に跋扈していたころのような、黒々した真の闇……ポツポツと街灯が歩道を照らしていても、それはまやかしの灯だ。
 闇は人の外側だけでなく、内側にもある。
 聡美はもう、その闇に恐れを感じることはない。
 まだ浮遊感の残る足取りで、歩道橋の階段を踏みしめた。眼下に横たわる県道も、渋滞が捌けて闇に沈み込んでいる。時折行きかう車のヘッドライトだけが、かすかに文明の息吹を感じさせるだけだった。
 ――なんて、静かな夜なんだろう。
 県道とまじわるわき道をたどりながら、聡美はそう思った。
 遊び歩く子供を叱る声。やたらボリューム上げたテレビの音。いつもなら耳に障る団地の生活音も、なぜか今夜は聞こえない。
 まるですべてが、聡美のためにお膳立てしてくれているようだった。思わず気分が高揚して、頬が赤らむのがわかった。知らずに早足になって、家へとつづく私道を目指していた。荒くなった息が、白く凍って闇の中に散ってゆく。
 ああ、いい感じだ。
 これならきっと、行き会うことができる。
 そんな予感がして、無我夢中で歩いた。汗ばみ始めた肌に、ブラウスが纏わりつく。やたら体が火照ってきて、リボンタイを解いて投げ捨てた。もう、鞄だっていらない。こんなものは、あの植え込みの中に放り込んでしまえばいい。だって聡美は、今から聡美ではなくなるのだから。そうして全部が終わったら、次は自分のように苦しむ人に救いの手をのべる存在になれるのだ。
 聡美のために、母がそうしてくれたように。
 聡美のために、カヨちゃんがそうしてくれたように。
 やがて交差路が見えてくると、キィキィと錆びた金属音か響いてくる。
 背後から、奇妙な歌声が聞こえてくる。
 トン、トン、トンカラ……トン。
 ――トン、トン、トンカラトン……。
 胸をときめかせながら、左手の包帯を解いた。今度こそおまじないで、彼の邪魔をしないように。その間も、決して歩調は緩めたりしない。あと五メートル……三メートル……もうすぐだ。もうすぐまた彼に会える。すると突然、
「……トンカラトンと、言え」
 耳元で声がした。
 聡美は開放の歓喜に身を震わせる。
 ふり向いた視線の先には、ただ彼がいた。錆だらけの自転車にまたがって、じっとまっ赤な目で、聡美を見つめていた。
 血濡れた包帯で巻きしめた、痩せぎすの体。右手にふり上げた、白々と光る日本刀。全身がどこか歪んで見えるのは、聡美のつたない記憶のせいだろう。父の描きなぐったイラストのまま、聡美の望んだ姿のまま、彼は現象としてそこにいた。
 けれど、聡美は彼の要求には応えない。
 応えてしまえば、彼は去ってしまうルールだから。
「ありがとう……」
 小さくそう、呟いてみる。
 現象である彼は、たんたんと役目を遂行する。
 頭上で閃いた白刃が、まだ薄い聡美の胸めがけて振り下ろされた。
 聡美は無言で微笑むと、両手を広げてそれを受け止めた。
 そして聡美は、彼になった。
 彼になった聡美も、役目を果たさなければならない。
 私道から団地の敷地に入り、公園をすり抜けて八号棟へ。薄暗い階段を三回折れた先には、ペンキの剥げかけた鉄扉がある。
 音を立てないよう注意して、ドアノブをまわす。
 ダイニングからは、夕食の支度をする音が聞こえている。キッチンでは、鼻歌まじりの男が包丁をふるっていた。聡美だった彼はスカートの隠しポケットを探ると、かつてそうしたように男の背後に近づいてゆく。
 その手のひらの中で、カチカチとカッターの刃が音を立てた。

[ 2017年08月12日 10:04 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 15

       ―― ・ ――

 ……とまぁ、これが事件の一部始終でして。
 ことが済んだあと、女の子がちくわを咥えてたってぇのは――アレの隠喩なんでしょうなぁ。アレですよ、アレ。お父つぁんの、ア、レ。……業が深いというか、情が深いというか、人間てなわからんモンです。可愛さ余ってなんてこたぁ、昔からいいますが。どうも憎さが余っても、愛着ってのは湧いてくるらしい。
 ええ、ええ、そりゃあねぇ。
 いかんせん。自分のはじめてを散らした、お父つぁんのアレですから。
 あはは、なにもそんな。そこで旦那が股間を押さえるこたぁないでしょ。それとも、なにか思い出しましたかい? ヒヒ……ああ、はいはい。それで女の子が、それからどうかなったか。さて、そいつはアタシにもちょっと。
 まあ、おっ母さんだの友達だの、ひとりで何人も演じわけてたんだ。大方どっかの病院にでも搬送されて、分裂症だなんだと適当な病名でもつけられたんでしょうが……仮に退院できたとして、世間様に受け入れてもらえるかどうか。
 なにせ、人殺しですからね。人殺し。
 しかも、よりにもよって親殺しだ。今の世の中、こればっかりはどうやっても帳消しにゃできやせん。情状酌量の余地、ってんですかい? それがあったとしても、ちょっと社会復帰は難しいでしょうなぁ……なにしろ、もうどこにも魔物なんざいませんから。医学や科学の、これが限界ってやつです。あらそうですか、じゃあ新しいお薬を出しておきますね、ってなモンで……ハァハァよろこぶのは、ネット辺りのイカモノ連中ぐらいだ。アタシなんかにすりゃあ、そっちの方がよっぽど気色わるいですけどねぇ。
 ――とはいえ。
 そんな無責任な連中の頭ン中こそ、得体のしれないモンの温床だ。ひょっとすると、こっからまた〝新手の伝怪〟なんてのも、産まれるかもしれない。
 ほら、ネットは〝現代の闇〟だなんていうでしょう? 膨れ上がった自尊心。ひとりよがりな被害妄想。こじらせた絶対正義。人目にさえつかなきゃあ、人間は平気で薄汚ぇこころン中を好き放題にぶちまける。だからあの痰壺ン中は、いつでも人のうしろ暗い部分でいっぱいだ。伝怪なんてのはそっからわいて出て、たまにこんな風に、ひょっこりこっち側に顔を見せたりするモンです。へへへ。
 と、そんなわけで――おや。
 どうしました、旦那。顔が真っ青みたいですぜ?
 うん? アタシの格好……? 嫌ですねぇ。最初っから、このナリじゃないですか。一張羅の長襦袢に、トレードマークの長い杖……別に着替えてなんかいませんや。
 へぇへぇ、仰る通りで……それとも。
 グルグルの包帯巻きで現れた方が、旦那のお好みでしたかい?
 ははぁ、よかった。
 ようやく全部、思い出してもらえましたか。
 そうです。そうです。通り物でもトンカラトンでも、好きな方で呼んでください。どっちにしたって、たいして変わりゃあしないんだ。……おっと。
 なにも構える必要はありませんや。
 だって旦那は、もう娘さんに斬り殺されてるでしょう?
 そう、だからアタシは斬りにきたんじゃあなくって、お迎えに上がりました。トンカラトンに斬られたんだ。設定通り、旦那もトンカラトンにならないと。ええ、ええ、図書館でちょっとばかり話させていただきましたが、いい娘さんじゃないですかい。ありゃあ将来有望だ。なんてったって、仕事が早い。
 それに比べて、旦那は往生際がわるいですなぁ。
 まぁだこんなところで、ふらふらとさまよって……。
 さ、それじゃ行きましょうか……って、おやおや。こりゃ困りモンだ。頭ぁ掻き毟ってみたところで、今さら起こった事実は変わりませんぜ?
 いい大学出て、講師んなって、なんで自分が? そりゃまあ、そうなんでしょうが……言ったところでそいつは、ただの旦那の理屈でしょう。身の程知らずな自己評価と、厚顔無恥な選民思考……旦那のこころの闇も、たいがい深いですなぁ。
 こいつはきっと、いい伝怪になる。
 ってなわけですから、あんまり手間ぁ掛けさせないでください。そうそう。個人的な逆恨みを晴らそうが、無差別にこっち側に引きずり込んで他人を貶めようが……こっから先は、旦那の自由ですんで。もちろん、アタシも口出しなんざしません。なにせ伝怪は、現象ですから。いいもわるいも関係ありませんや。
 ……あぁ、さいですかい。それなら、おとなしく往生してくれると?
 ふぅ、これだからまったく……。
 どんなに時代が下ってみても、ほんとに変わらないモンですなぁ――いつんなってもおっかねぇのは、アタシら魔物より人間のこころン中の方だ。
                                                     〈了〉

[ 2017年08月19日 11:15 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)
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ドューハン

Author:ドューハン
まぁなんだ。能天気に生きてますw

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