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我と我が身と彼のものと。

常在辞世。渋枯れ好みの“詫びオタク”…なんとなく更新中。
我と我が身と彼のものと。 TOP  >  2017年07月

伝怪 12

 それでも根気よく聡美の発言を待っていた老人は、ははっ、と愉快そうに笑い、コツリと杖を鳴らして一歩分だけ聡美に近づいた。
「そこまでとは言いませんが、詳しいですよ。たぶん」
「……じゃあ」
 詰まりかけた喉から無理やり押し出し、わらにも縋る思いで訊ねてみる。
 どうしても口にできなかった、あの名前を。
「知ってますか? 怪人トンカラトン、って……」
 その時、一瞬だけ老人がニタリと笑ったように見えたのは、気のせいだろうか? 間を置かず「ああ、ああ」と相槌を打った老人は、大きく二度三度頷きながら、あっけらかんとした口調でこう言った。
「知ってますよ。トン、トン、トンカラトン……って、やつでしょう? そうですか、またマイナーな伝怪を。その図鑑にも、載ってなかったのでは」
「……えっと、はい」
 再確認こそしていなかったが、聡美はすぐに頷いた。
 老人ほどでないかもしれないけれど、父もこの図鑑は熟読しているはず。その父が知らなかったのだから、当然ここには〝トンカラトン〟の項目はないのだろう。もとから承知の上だったが、つい老人の口調がおかしくて、聡美の口から本当にひさしぶりにくすりと笑いが漏れた。この老人と話していると、なぜだか気分が晴れる。父のことも幻覚のことも気にならなくなってくる。もう少しだけ老人と話したくなった聡美は、それで決心して図鑑をカウンターに置く。
 今度はしっかり老人に向き直ると、軽く深呼吸してからきり出した。
「よかったら、教えてもらえませんか。その伝怪のこと」
 老人の頬が、嬉しそうに緩んだ。
「ええ、構いませんよ。お嬢さんは、どこまでご存知です?」
 快い老人の返答に、聡美は小さく息をついた。さっそく椅子を薦めると、老人はまぁまぁとそれを辞した。少し戸惑ったが、老人がそれでいいのなら仕方がない。対面で老人を見上げる形で、聡美はぽつぽつと話を始めた。
 わずらわしいことを嫌う自分が、なぜそんな気になったかは聡美にもわからない。
 ただ今は、そうしなければならない気もしていた。
 老人の人柄がそうさせたのかもしれないし、本当は聡美が〝まともな人間との会話〟に飢えていたのかもしれない。
 なんにせよ二年半――自分を殺してきた鬱憤を晴らすように、聡美は夢中になって馬鹿馬鹿しい伝怪の話をした。途中で女子大生風の咳払いが何度か聞こえたが、そんなものもどうでもよかった。気がつくとなにかに憑りつかれたように、聡美はひと通りの知識を老人に披露していた。
 まず、トンカラトンは全身に包帯を巻いている。
 日本刀を持って、突然現れる。
 トン、トン、トンカラトン……と歌いながら自転車でやってくる。
 出会うといきなり、「トンカラトンと言え」と言ってくる。
 注文通り「トンカラトン」と言えば、なにもしないでそのまま去ってゆく。
 言わないと、持っている日本刀で斬りつけられる。
 要求される前に、「トンカラトン」と呼んでも斬りつけられる。
 斬られると、自分も「トンカラトン」になってしまう。
 そして、左手に包帯を巻いておくと……
 そこまで一気に捲し立てて、聡美は大きく息を吸った。知らぬ間に、身ぶり手ぶりまでつけて喋っていた。そのくらい、老人と話をするのは楽しかった。自分がまだこんなに饒舌に話せるのかと、少し驚きもした。だから、
「なるほど、それで――」
 そう呟いた老人に左手を指さされた時、心底どきりとした。
 いきなり冷水を浴びせられた気がして、聡美は慌ててその左手を背に隠す。
「ち、違うんです。これは、その……」
 隠した左手には、解けかけた包帯がそのまま巻かれていた。
 言われてみればたしかに、これは伝怪除けのおまじないだ。だから歩道橋で、あいつはこの左手を見て……だけど実際は違う。これは聡美と父の爛れた関係の証。それを老人に見透かされた気がして、聡美は目を伏せた。
 老人はただ、うんうんと頷いて、ことさら陽気に話をもとに戻した。
「まあ、それは冗談として。だいたいそんなもんです。もともと民話や伝承。正式な、というと語弊がありますが……まだそういう形で残されていない伝怪は、あやふやなものが多い。中でもこのトンカラトンってやつは、特に情報が少ない」
「……そうなん、ですか?」
「ええ、ええ、そうなんですよ」
 あたり障りない対応で様子を窺うと、老人は何事もなかったように小首を傾げる。聡美の適当な相槌にも、満面の笑みで答えてくれた。その反応で、聡美は胸を撫で下ろす。萎みかけた気持ちが、また息を吹き返した。勘づいているのかいないのか、老人は無用な詮索をするつもりはないらしい。
 そのこころ遣いが、また嬉しかった。
 聡美はますます、この老人との会話に引き込まれていった。
「補足するとすれば、〝助けてやるとお礼に包帯をくれる〟だの〝おまじないの包帯はそれじゃなきゃいけない〟だの……そうそう、〝たまに集団で現れる〟なんて尾ヒレもありましたが、概ねお嬢さんのお話が全部ですよ」
「はぁ……」
「ふむ。その反応からすると、がっかりさせてしまいましたかな? でもね。伝怪が面白いのは、そこからまた〝新しい噂話〟が産まれるところです。たとえば……ええっと、トイレの花子さんはわかりますか?」
「はい、それは有名ですから」
「よかった。その花子さんですが、これは伝怪としてはかなり古いものになります。雛形になった〝三番目の花子さん〟が一九五〇年ごろの出自ですから、伝怪の元祖とされている赤マントとも同級生だ。話自体は――」
「それも知ってます。〝トイレの三番目のドアを〟ってやつ」
「それです、それです。なら端折るとして――ところがこれ。全国に広まると、いろんなパターンができると共に、『もとになった事件』なんて噂まで出まわってくる。まあ実際にそれらしき事件もあるにはあるんですが……不気味なもんで、伝播するうち『もとになった事件』自体のバリエーションが増えていくんですな。中には〝伝怪の設定そのままの事件〟なんてものまで出てくる。花子さんのもとになった、女の子の亡くなり方。亡くなられた舞台と状況。女の子の名前が違うってこと以外、どれを取ってもそっくりだ。私も気になりなしてねぇ。ほうぼう歩いて、調べてみた」
「じゃあ、伝怪もやっぱり妖怪みたいに……」
 思わず聡美が身を乗り出すと、さて、と声をひそめながら老人も身を屈めた。
 落語かなにかでも聴いているような、小気味のいいテンポ。巧み、というか。老人の話し方は、聡美のツボをついて飽きさせなかった。本筋から外れるようで、核心をついているようでもある。まるで、昔の父と話してるような……。
 そんな錯覚も手伝い、長々と溜める老人に痺れをきらして声をかける。
「それで、その事件は……」
 すると老人は、ぴしゃりと額を叩いて言った。
「デマでした!」
 タイミングも絶妙だったが、くしゃりと破顔した老人につられて、聡美はクスクスと笑っていた。老人は満足そうに頷くと、「そうそう、女の子は笑顔じゃないと」と言って杖を鳴らした。その音がなにかの合図のように、聡美のこころに沁み込んできた。
 本当に清々しかった。こんなに楽しい時間は、どれくらいぶりだろう? こころの底から思いながら、聡美はしばらく笑いつづけた。
 聡美が笑い終わるのを待って、老人は先をつづける。
「さんざん苦労して事件の詳細な地域を絞り込んでみれば、そんな事件の記録は警察にもない。どころか、その町内にそんな番地すらなかった。まったくの無駄足ですな。と、そうやって〝伝怪に真実味を出す〟ために、新たな設定として〝次の伝怪〟が産み落とされる。これはすでに完成された妖怪では、なかなか味わえない醍醐味です。民間伝承から神話性が失われた、都市伝説ならではのものでしょう」
「へえ……」
「まあ、その辺はその図鑑にも書いてあります」
 あとでじっくり読むといい。そうつけ足して、老人は悪戯小僧のように笑った。抑えめな照明の加減か、瞬間、老人の顔が暗く陰ったようにも見えた。
 それから老人は、ただし――と人差し指を立てる。
 はい、と背筋を伸ばし、聡美も聞く態勢を改めた。打って変わった老人の口調は、いよいよここから本題だよ? そう言っているようだった。緩急をつけられたことで、聡美はすっかり老人の調子に乗せられていた。
 コツコツと杖を二度鳴らして、老人の講義が再開した。
「それでも伝怪には、妖怪と変わらない側面もあると思うんですよ」
「……それは?」
「うぅん、上手く言葉にできませんが、救済のための役割。とでも言いましょうか? たしかに神話性は失われた……ただ失われたからこそ、妖怪より浮き彫りになった、人間の本性に関わるもの。たとえばそう、妖怪は畏怖や教訓の具象化だった。そこから解放されたからこその、剥き出しになった欲求の受け皿とでもいいますか……そんな役目が、伝怪にはあると思うんです」
 そうですなぁ、と言って老人はぽりぽりと額を掻く。
 しばらくそのまま考える間があって、今度は聡美もおとなしく待った。これはさっきのような溜めではないだろう。きっと。
 待っているとポンと額を打ち、老人はカウンターの図鑑をさす。
 返ってきたのは、予想外の答えだった。
「そうだ、お嬢さん。それの〝通り物〟の解説を開いてみてください。たぶん、五百ページ辺りに載っていたはずだ」
「……え?」
 初めは聞き間違いかと、聡美は自分の耳を疑った。ざわ、と首筋を撫でてゆくものがあった。「とおり、もの……?」そう老人に聞き直してみると、「そうです、通り物」と老人はこともなげに答えた。
「でも、それって妖怪の名前なんじゃ……」
「ほほぉ、通り物も知っている。これは、本当に将来有望だ」
「いえ、そういうことじゃなくて」
「まあまあ。変だと思われるでしょうが、説明はちゃんとしますから」
 その方が早いですし、と老人は促すが、聡美は躊躇せずにはいられなかった。
 通り物……これは、記憶に刻まれた呪いの一部だ。
 父に彫り込まれた、禍の文言だ。
 ついつい鈍る手に、老人の表情が訝しげに曇る。「どうしました?」と尋ねられ、聡美は返答に困って「ああ、いえ……」としか答えられなかった。もし今、このページを開いたら? それで、よくないものが開放されてしまったら?
 だとしても、もう向き合うしかないだろう。
 それに今なら、この老人もついている。
 ここまできたのならと覚悟を決め、聡美は老人に背を向けカウンターに向き直る。静かに深呼吸をして、ゆっくりと指定されたページの付近を探してみる。
 老人の言う通り、目的の解説は図鑑の真ん中辺りにあった。
 乱れた和服の女性と、杖をついた不気味な老爺のイラスト……白髪の老爺は、柄のない薄汚れた着物を羽織っている。遠い記憶のまま切り出された、得体のしれない浮世絵風の図。聡美は息を殺して、じっとそれに目を凝らす。
「まずは、読んでみてください」
「……はい」
 老人に勧められるまま、聡美は解説を読み進めていった。
 内容を掻い摘むと、次のようなものだった。
 時代は江戸。ある女房は、ぼんやりと借家の庭を眺めて亭主の帰りを待っていた。
 すると夕暮れ、いつの間にか庭先に、白髪の老爺が立っている。ニヤニヤ笑いながら長い杖に縋る、気味のわるい老爺だった。しかも季節は秋だというのに、着ているのは薄汚れた長襦袢一枚だ。顔も土気色で、とてもこの世のものとは思えない。
 女房が身構えると、つっと老爺が近づいてくる。
 とっさに女房は両眼を閉じ、うろ覚えのお経を唱えた。
 心を静めてお経を唱えつづけ、そっと目を開いてみると、すでにそこには老爺の姿はない。女房は、ほぅっとため息を落とす。
 ところが間もなく、数軒先の屋敷で騒ぎが起きた。聞けばその家の細君が、狂って刃傷沙汰に及んだそうだ。ぞっとした女房は、先刻の老爺の姿を思い出す。あれはきっと、よくないものだ。人に憑りつき狂わせる、通りすがりの魔物だ。
 ――通り物。通り悪魔。
 一説には、縋っているのは杖ではなく槍だともいう。こころの弱いものは、その槍で突かれるのだ。魔に刺されてしまうのだ。現代でいう『通り魔』の由来も、ここにあるのかもしれない。そう、解説は結ばれていた。
「……読み終わりましたか?」
 また絶妙のタイミングで、老人が聞いてくる。
 小さく頷き、聡美は図鑑を閉じた。
 目をつむり、今読んだ内容を反芻する。夕暮れ。魔物。魔に刺される……なにかが聡美の頭の中で、ぎしぎしと音を立てて繋がり始めた。また現実と妄想の境目が、曖昧になってゆく。それともさっきから、ずっと夢でも見ているのだろうか? ざらついたテレビ画面のような、ノイズだらけの映像。じょじょに焦点が定まると、唇を尖らせる小学三年の聡美の話を、父は興味深そうに聞いている。
「うぅん、こんな感じかな……?」
 聡美が差し出した色鉛筆を取って、父はすらすらと雑な絵を描き出した。
 包帯を全身に巻いた、気味わるい怪人の絵だ。
(……これはあの幻覚の)
 上手いのか下手なのか、勝手なアレンジを加えた父の想像図は、微妙にねじくれて歪んでしまっている。それが逆に、生理的な嫌悪を掻き立てた。聡美とカヨちゃんが学校で聞いたより、何倍も何十倍も……。
 すると今度は、耳の奥で母の声がした。
「ごめんなさい、魔が刺しただけなの」
 不貞が発覚した時の、呆れかえる言いぐさ。その虫唾がはしる言い訳を、小六の聡美は首をふって拒絶した。弱い母はいつも誰かのせいにする。魔物のせいにして、父のせいにして、最後は聡美のせいにする。わたしは絶対、そんな風になるもんか。魔に刺されたりするもんか。叫んだのか呟いたのか、自分でもよくわからない。けれどその答えを待っていたように、どこかでコツコツと杖が鳴る。そして、
「どうです? 通り物……似ているでしょう、例の伝怪に」
 過去の父の言葉に、老人の声が重なった。

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[ 2017年07月29日 18:26 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 11

 著者が漫画家だけあって、本は絵図……というより、イラストつきで妖怪や都市伝説について解説した、とてもわかりやすい内容だった。
 入門書の位置にあたるのか、知識の薄い聡美にもどうにか理解できた。
 メインになるのは、やはりイラストつきの妖怪や怪人の解説だったが、まずはじめにおおまかな〝妖怪〟の説明があり、つづいてその役割が記してある。まだ科学という灯りが世界を照らしていなかったころ、その代りに〝万物の説明〟をつけるために生まれたのが妖怪だと書かれている。
 たとえば砂地でもない森の中で、風もないのに砂が目に入った時。
 それが誰かひとりの体験なら、さした問題にもならないだろう。科学がなかった時代でも、「まあ、不思議なことがあるものだ」で済まされるに違いない。けれど同一の時間、同一の場所、同一のシチュエーションでそれが何度もくり返されると、ほんの少し状況が変わってくる。現代でも〝理解不能な現象〟が身近につづいた場合は、それがどんな些細なことでも人は不安に思うはずだ。
 なにかよくないことの、前兆ではないのか?
 自分たちは、このままここにいて本当に大丈夫なのか?
 そんな時、人は必ず情報を同期して〝現象に形を与えよう〟とする。今の時代ならネットで。一昔前ならテレビやラジオで。集団ヒステリー、プラズマ、ブロッケン現象……とにかく集められるだけの情報を統合して、当面の安心を得ようと奔走するはずだ。
 理解できない、ということは。それだけで不安だ。
 ないはずの砂が目に入った。その程度の日常の違和感でも、積もり積もれば得体のしれない不安に変わる。
 現代ならそれも、気流やなにかの関係で樹の上に砂が堆積し――とか説明もつくはずだろうけど、あいにくとそんな常識がない時代なら? 募った不安は恐怖になり、恐怖は錯覚や幻覚を産む。それは聡美も、我がこととして知っている。
 ましてその時代、暗がりは真の闇だ。
 現代人ですら闇の中には、ありもしない気配を感じたりする。当時の人たちの身の上で考えれば、なおさらそれは大きいだろう。なにしろこの国の歴史を紐解くと、〝姥捨て〟や〝間引き〟は、どこにでもあった普通の慣習だ。
 でも普通だからといって、それをして平然といられたわけはない。
 闇はそんな負い目の影を、こころの奥底から引きずり出す。
 その中で、砂を目に食らったある人が、森の闇に〝山に捨てた己の老母〟の気配を感じ取ったとする。ぞっとして冷や汗をかいたその人は、逃げ帰って、寝ずに待っていた女房に夢中でその話を聞かせるだろう。
「あれはおっ母だ。きっと俺を恨んで、化けて出たに違ぇねぇ」
 もしかするとその話は、宵っ張りの子供たちも聞いていたかもしれない。娯楽の少なかった時代だ、次の日の井戸端や遊び場は、その話で持ちきりになったかも。そして父の言葉ではないが、かつてコミュニティの情報同期の手段は〝噂話〟だった。
 中にはひとりくらい、「そういやうちの亭主も……」と言い出したかもしれない。
 そうなると、「うちもうちも」と連鎖が始まる。
 そうやって噂が伝播するうち、情報から〝どこの誰べえの母親〟は消えて〝老婆〟という単語だけが残ってゆく。
 気配を感じたのがひとりであれば、〝母親の幽霊〟なのだろうが――それが複数人ともなれば、もう砂をかけるのは〝得体のしれない老婆〟だからだ。やがてそれが浸透してゆくと、現象には『砂かけ婆』という名前がつけられる。
 まずそれが妖怪誕生の第一歩目だと、その本には書いてあった。
 恐らく著者の独断もおおいに混じっているだろうが、人間心理や緊急回避などとややこしいことを並べて煙に巻かれるより、聡美はよほど素直に納得することができた。
(つまり、姿形を与えて不安を遠ざける?)
 そこで一旦顔を上げ、聡美は窓の外の景色に視線を投げる。
 昼間なら公園の広場を見下ろせる二階の窓も、今は鏡のように反射して、意識をしなければ映り込む聡美の姿の方に目がゆく。
 ガラスの向こうの闇と館内の照明が、そう作用している。見えなければ希薄になってしまう自分への意識も、この状態だとよく感じ取れる。顔色はどう? 髪の乱れは? 具体的に形がわかることで、対処法も方針も見えてくる。
 それで復調することも髪が整うこともないが、見えることでなぜが安心する。
(そういう、ことなのか……)
 たぶん厳密には違うのだろうが、聡美は勝手にそう解釈した。現象に形と名前を与えて目途をつけることで、〝わからないもの〟を〝実態のあるもの〟へと変換する。実態さえあれば、得体がしれなくても対処も予防もできる。たとえば聡美は、小さいころ宇宙や時間のことがわからなくて漠然と畏怖を感じていた。
 宇宙はどこまでつづいているのか?
 その外側があるのなら、外側とはどこまでつづくのか?
 そもそも、宇宙ってなに?
 アリの巣だのトンネルだのといわれても、さっぱり理解が及ばなかった。時間と空間がといわれても、その時間とはなんなのか?
 今日の前に昨日があって、昨日の前に一昨日がある。そうやって遡って、どこから時間が始まっているのか? 考えると意味もなく不安になって、夜も眠れなくなったことだってある。けれど誰も、聡美が納得できる形で答えを出してはくれなかった。
 思い切って父に訊ねると、盛大に笑われた。
「科学ってのは、そういうはっきりしないものに〝概念〟っていう輪郭をつけるただの定規だ。はっきりしないのに、そこにあったらモヤモヤするだろう? だから、とりあえずの形と名前をつけて安心する。宇宙も時間も、本当にあるのかは誰も知らない。知らないから、〝そういうものだ〟で納得するのが一番だ。まあ、難しく考えるな」
 そう言われて、長年の異物感がぱっと解消された。
 あやふやなりに実態が見えたことで、不思議な安堵感を得たのを覚えている。聡美が畏れたのは〝わからないこと〟自体で、宇宙や時間ではなかったのだ。その証拠に、今ではどちらも怖いとは思わない。
 そう考えてみれば、科学もオカルトもたいした違いはないのかもしれない。「科学には実証と結果が――」と聞いたこともあるが、それだって〝科学からの目線〟で構築された理屈によるものだ。オカルトにはオカルトの理屈だって、あるにはあるだろう。第一その科学だって、身近なことも明らかにはできていない。
 脳の仕組みも八割は解明されていないというし、病気にしたって対処法がわかっていても原因が不明なものはたくさんある。それでもみんな科学を信じ、説明を受ければ安心する。昔はそれが信仰であり宗教であり、別の根拠で動いていただけ。
(……妖怪も、その一部)
 アニメやゲームの影響で、聡美は妖怪をキャラクターのように思っていた。
 実際、江戸時代から先はそうなったと、本には書いてあった。元来『妖怪』とは、文字通り〝妖しく怪奇な現象〟をさす言葉で、いわゆる〝お化け〟限定ではないらしい。擬人化をともなわない、不可思議な現象……今でいうと異次元や超能力といったものも、そこには含まれるそうだ。ともあれオカルトが、人間が生きる上での安全装置だったことはわかった。知ってみると、意外と興味深いものだった。
 そして解説は、〝都市伝説〟へと進む。
 いよいよだ。そう思って、もう一度唾を飲み込む。その瞬間、
「ははぁ、これはまた――」
 唐突に声がして、聡美はビクリと顔を上げた。反射的に目を凝らした窓ガラスには、馬鹿みたいに呆けた自分と、微笑みながら立つ老人の姿が映っていた。……いつの間にうしろに? 慄きながら体ごとふり向くと、はずみで横滑りした椅子の足がギギッと不快な音を立てる。離れた閲覧机の方から、また女子大生風の咳払いが聞こえた。
 老人は、困った顔で閲覧席を見やると、
「すみません、ご迷惑をかけてしまったようで」
 そう言って、見事に禿げ上がった頭をぽりぽりと掻いた。とっくりのセーターの上にねずみ色のスーツを着た、人のよさそうなお爺さんだ。
 着ているものはどちらも着古して多少よれていたが、どこか品のいい感じがした。右手には生成りのコートをかけていて、左手にはステッキ――というか、木目調の節だった杖をついている。それが妙に印象的だった。
(誰だろう……)
 顔見知りかもとも思ったが、やはり見覚えはない。そもそも話しかけてくるような知り合いは、今の聡美にいるはずもない。
 困惑した聡美は、おずおずと老人の問いに問いで返す。
「いえ……あの、なにか?」
「ああ、重ねてこれはどうも……いきなりこんな爺ぃに話しかけられたら、そりゃお嬢さんもびっくりしてしまいますなぁ」
 言いながらもわるびれた様子はなく、「私はただね」と、老人は聡美の手元の本を指さした。一連の所作があまりにも自然で、ついついペースに巻き込まれた。
「その図鑑、お嬢さんみたいな今時の子が読むのは珍しい……というか嬉しくてねぇ。いやいや、その歳で妖怪に興味を持ってくれるとは。これもテレビのお陰なんですかな。私も愛読書なんですよ、それ。もう少し上級者になったら、柳田國男や井上円了なんかも読んでみるといい。将来有望だ」
 聡美は、はぁ、と答えるしかなかった。
 それは構わないが、いきなり言われてもリアクションに困る。
 老人もそれで空気を察したのか、あぁこれは、とくり返すと頭を下げた。聡美もつられて、小さく目礼をする。それにしても、どこにいたんだろう? さっきまで、お爺さんなんて見かけなかったのに。本棚の陰にでも隠れて、見えなかったのだろうか? それとも気づかないうち、閲覧室に移動してきていたのか?
 そんなことを考えながら見上げていると、老人は「じゃあ、ごゆっくり」とにこやかに微笑んだ。聡美もなにか返そうと口をパクパクさせたが、老人はいやいやと手をふって踵を返した。ところが、その去り際に、
「おや……」
 肩越しにふり向いた老人の目が、ふたたび図鑑の上で止まる。ほんのちょっと嬉しそうに眉を上げると、ぽつりと言った。
「お嬢さんが知りたかったのは、〝伝怪〟の方ですか」
「……えっ?」
 聡美は思わず聞き返した。老人の表情も気にはなったが、それより耳慣れない単語を聞いたからだ。伝怪……語呂や老人の目が追った先からみて、都市伝説のことだろう。聡美の手元の図鑑は、都市伝説についてのページが開きっぱなしになっている。
「あの、伝怪って――」
 呼び止めるともなく声をかけると、それが口癖なのか「あぁ」と呟いて、老人は照れくさそうに聡美に向き直った。
「どうも、度々失礼を。伝怪ってのは、私が勝手につけた呼び名でして。お察しの通り都市伝説の怪人のことです。伝説の〝伝〟に、怪人の〝怪〟。仕事がらこの手のものを扱うことが多かったもので、妖怪と区別するためにちょっと。はい」
 仕事といっても、昔のことですが――
 そう付け足して、老人はまたぽりぽりと頭を掻いた。
 ということは、学者か学芸員……それとも大学関係の? 自分の身近な環境で考えたせいか、聡美が連想したのはそういう職業だった。訊ねると老人は悩ましげに首を傾げ、「まあ、そんなところですかな」とだけ答えた。
「それはそれとして。お嬢さんが調べているのは、その伝怪の方では?」
「そう、なんですが……」
 聡美は、どう説明していいかわからず口籠った。
 いきおいで聞き返してしまったものの、まさか〝幻覚の怪人〟への対処法を調べていたとは口が裂けても言えない。けれど老人は、この図鑑を愛読書と言っていた。さっきまでの口ぶりからしても、どうやら妖怪が専門らしい。ということなら、もしかして。
 思いきって、相談してみようか? そんな考えが聡美の頭をよぎる。でも初対面の人にこんなトンデモ話、いくらなんでも非常識だろうか。
 さんざん思案して、やっと出た質問は、
「その、お爺さんは詳しいんですか? 都市伝説……伝怪にも」
 という、ぼんやりしたものだった。

[ 2017年07月22日 19:44 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 10

 あとは、どこをどう走ったのか覚えていない。いつの間にか公園に飛び込んでいた聡美は、遊歩道を滅茶苦茶にぬって、気がつくと図書館の前に立っていた。
 肩を喘がせ、鞄を抱きしめそのシルエットを見上げる。
 常緑樹の生垣で公園から仕切られた、サイコロを重ねたような独特の形――無意識に知った道をたどったのか。ただの偶然なのか。どちらにしろ、暗がりに浮かぶ見慣れたタイル張りの建物が、今はとても頼もしかった。
(よかった、ここなら……)
 ひとまずの安息を得たせいか、ほっとして上気した頬が緩む。
 慣れない全力疾走で肺は破裂しそうだったが、恐怖から解き放たれた安堵でそんなものは気にならなかった。北風にさらわれる落ち葉が捌けるように、さぁっと頭痛も引いていった。そのころにはもう、自分が正気かどうかもどうでもよくなっていた。
 ――とにかく、一刻も早く中へ。
 はやる気持ちを抑えながら、聡美は図書館の自動ドアを潜る。平日の夕方ということもあり、館内に思いのほか利用者は少なかった。それでも人の気配があるだけで、本当にありがたかった。まずは、ここで気を静めよう。混乱した頭を、もう一度整理しよう。そんなことを考えながら、エントランスからロビーへ入る。周囲の目に気をつけながら、大きく深呼吸をひとつした。
 どこか埃くさい、読み込まれた古い紙の匂い。
 嗅ぎ慣れたその匂いを胸いっぱいに吸い込むと、ほんの少しだけ落ち着いた。荒んでいた精神が、ひさしぶりに凪ぐのを感じた。
(そういえば、図書館にくるのなんて何週間ぶりだろう)
 どうにか巡り始めた頭で、なにげなくそう考える。
 ずっと張り詰めていたものが、ふっと途切れるのがわかった。
 もともと聡美が読書を始めたのは、例の噂が広まった小六のころからだった。理不尽な孤独をまぎらわすため、気になった本は手当たりしだいに読んだ。もっともそれは、小説や詩集が大半だったが、だから聡美は自分を愛読家だとは思っていない。毎週末をこの図書館ですごしたのも、わずらわしい周囲の目をさけるためだった。
 けれど知らぬ間に、聡美にとってここは安らぎの場になっていたらしい。ここしばらくは、そんな時間すら奪われていた。
 さっきまでの身の竦む恐怖も忘れ、しみじみと館内を見渡してみる。
 受付カウンターには、よく顔を見る女性職員がいた。今年の春先の配属以来、聡美の顔を覚えているらしいその若い司書は、あら、という表情をしてから、にこやかに聡美に目礼した。聡美も戸惑いながら、伏し目がちにお辞儀をする。
 余計な人間関係を嫌う聡美は、もちろん一度も彼女と声を交わしたことはない。でも今はその気遣いが、なんだか無性に嬉しかった。
 受付の対面には視聴覚コーナーがあって、インターネットスペースに大学生らしい人影がポツポツと見えた。受付で申請すればノートパソコンの貸し出しもあったが、アナログ派の聡美はここには用がなかった。
 あとはその先に、会議等に使う多目的スペースが。
 こちらはこの時間だと、利用者がいる様子はさすがにない。すべて馴染み深い変わらない風景――ほんの数週間ぶりなのに、なぜかだかとても懐かしい気がした。
 そのお陰もあってか、じょじょに聡美も平静を取り戻してゆく。ロビーを横ぎり二階への階段を上るころには、現実の……といっても怪人は幻覚だが……忌まわしさからも解放され、足取りもだいぶ軽くなっていた。
 二階は開架図書になっていて、ずらりと書架が並んでいる。
 やはりこちらにも、さほど人はいなかった。児童書を含むキッズコーナーが無人なのは当然のこと、一般向けの閲覧席にも間を置いて二、三人――大きな机をそれそれぞれが独占する形で、資料を広げてレポートらしき作業に没頭している女子大生風や、本を積み上げて読みふける、暇つぶしらしき若者たちが確認できるだけだった。
 書架の間にはまだ誰かいるかもしれないけれど、階段側からでは死角になってよくわからない。少なくとも、気配は感じられない。
 とりあえず、何冊か見繕って……。
 そう考えた聡美は、詩集の棚に足を向ける。混乱した頭を覚ますには、物語より純粋な言葉の結晶の方が適しているような気がしたから。
 ――と、その時。
 鞄の中で断続的に振動音がした。驚いて飛び上がりそうになった聡美は、あっ、と小さく声を漏らして立ちつくす。そういえば携帯の電源をきっていなかった。いつもなら、絶対に忘れたりなんかしないのに。
「え、えっと……携帯」
 初歩のミスに狼狽えながら、もそもそと鞄を探る。
 ようやく携帯を取り出してため息をつくと、閲覧席から露骨な咳払いが聞こえた。レポートに熱中していた、さっきの女子大生風だ。それが口火になって、連鎖するように視線が集中する。聡美はおどおどと頭を下げると、手近な書架の間に飛び込んだ。
「あぁ……」
 慌てて確認してみると、父からのメールが数件ほど着信していた。
 手早く携帯を開き、タイトルにだけ目を通す。内容は読まなくても把握できた。『電車が止まっている』『夕飯は遅くなる』。最初の何件かは、聡美がバスで呆けていたころのメールだ。数秒だけ迷って、聡美は返信せずに電源をきった。
(なにも、このタイミングで……)
 今さら罪悪感はなかった。
 どうせ父がメールしたのは、聡美ではなく記号になのだから。気がかりがひとつ解消した安心感よりも、不意を突かれたことに苛立った。
 一瞬、父に対してなにかが点灯した。
 昏い昏い、こころの奥底から産まれた、赤黒く澱んだなにか。
 わたしがこんな思いをしている時に……どうせ必要なのは人形のくせに……急速に膨らんだ激情に動揺し、はっとして我に返る。やめよう。わたしは記号だ。人形なんだ。こんな恐ろしい感情は……気を取り直して、書棚を見上げる。とっさのことで気づかなかったが、参考図書の棚のようだった。
 一般的な辞典や図鑑に混じって、宗教や民俗学の書籍も並んでいる。
 ――民俗学。
 父が専門としている分野。
「まったく……」
 思わず口に出て、首をふって詩集の棚に足を向ける。見るともなしに棚のつづきに視線を滑らせてゆくと、端の一角で目が留まった。雑学のラベルが貼られた一群に、見覚えのあるぶ厚い文庫がぽつんとあった。なんの変哲もない灰色の背表紙だが、ひねりのない安直すぎるタイトルも薄っすらと頭の隅に残っている。
『図説・現代妖奇考』
 記憶の中の――あるいは夢の中の、父が読んでいた愛読書だ。
 ぞわりと、なにかが背筋を這う感覚があった。
 恐怖や嫌悪ではなく、予感のようなもの。思わず手に取って、聡美は閲覧席へと向かった。閲覧用の机は書架から窓よりにあり、窓際にはカウンターになったひとり掛けの席が並んでいる。ちょっと迷っていると、咳払いの女子大生風と目が合った。その睨むような視線に気圧され、机から一番離れたカウンターの奥の席に座った。
 席に着くと、ひと息ついて表紙を撫でる。
 暗い深緑をバックに、黄色でタイトルが印刷された表紙だ。
 裏表紙には〝妖怪から都市伝説へ〟のうたい文句と、著者の持論を云々という簡略な内容説明が書いてある。……都市伝説。その文字が目に飛び込んできたとたん、聡美は生唾を飲み込んだ。どうする。やはり読むのはやめようか。
 今なら、素知らぬ顔で本棚に戻すだけ。
 なにくわぬふりで、詩集の棚に行って本を選び直せばいい。でも。
(うぅん、これもなにかの縁だ)
 そう覚悟して、聡美は表紙に手をかける。それにひょっとすると、あの幻覚の原因がなにかもわかるかもしれない。妖怪。都市伝説。こころの闇。父はそれを、人間の営みそのものだと言った。そこにどんな繋がりがあるか皆目見当はつかないけれど、わずかでもその辺りに触れることができれば、聡美自身の異変にも説明がつくのかも。
 わけもなくそんな気がして、ゆっくりと表紙をめくる。
 なにかに憑りつかれたとすれば、この時なのかもしれない。

[ 2017年07月14日 18:01 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 09

 やがてバスは市街地を経由し、郊外の新興住宅地を目指してゆく。
 県道をそれ、私鉄の線路を潜るアンダーパスを通過するころには、町はすっかり宵闇の青につつまれていた。
 帰宅時間も近づいたのか、バス停のたびに乗客も増えてゆく。
 聡美はただぼんやりと、それを眺めていた。
(大丈夫、大丈夫――)
 ここにはもう怪人はいない。それに冷静になってみれば、あれはただの幻覚だ。どんなにはっきり見えても、実際に襲ってくるはずはない。だから、家に帰ろう。早くバスを降りて、遅れを取り戻そう。でないと、また父が取り乱す。今度こそ、帰る場所がなくなってしまう。それはわかっていても、頭痛で鈍る頭が行動に移すのを拒絶した。
 たまに流れる車内アナウンスも頭に入ってこなかったが、バスの終点ならおおよそ見当はついた。国立病院の前を通るこのルートなら、国道沿いの県営公園を境に、バイパスに入るか父の勤務するキャンパスに着くかのどちらかだ。
 降りるなら、県営公園の前。
 公園といっても、かなり敷地は広い。テニスコートもあれば、野外ステージもある。市役所沿いの二区画を使用した、県外にも名の知れた公園だ。敷地内には市立図書館もあって、聡美も休日にはよく利用している。
 とにかく、早く引き返さなければ。そうは思うが、一向に気力がわいてこない。
(わたしは、なにをしてるんだろう……)
 聡美は自分の反応に戸惑いを覚えつつ、窓の外に視線を投げる。すでに渋滞の始まった対向車線は、テールランプのまっ赤な連なりが駅までつづいていた。仮に今すぐ折り返しのバスを捉まえても、とても夕食には間に合わない。行き詰ってバスのシートに背をゆだねると、当たり前のように不吉な疑念が首をもたげてきた。やっぱりわたしの頭は、おかしくなってしまったのだろうか?
(違う、ちょっと疲れてるだけだ。きっとそうだ)
 必死に否定してみるが、もつれた思考は堂々巡りするだけだった。
 じゃあ、この頭痛は?
 さっきの気味わるい怪人は?
 どちらにしろ、幻覚から逃げ出す時点でどうかしている。そんな気もして、そら寒くなって肩を抱いた。そもそも、こんな都市伝説がなぜ怖いのか? 子供だましのおふざけじゃないか? 考えるほど頭痛は酷くなり、脳裏にノイズのような言葉が蘇る。
 ……人間は、弱くて脆い……こころのバランスが……そんな時の……緊急回避……昔から……妖怪……都市伝説……通り物……。
 ――通り物?
 たしか妖怪の名前だ。ということは、これは父の声。
 なにか記憶に引っかかっている。引っかかってはいるが、どうしても思い出せない。思い出さなくてはいけない気もするし、決して思い出してはいけない気もする。もどかしさから逃れるようにふたたび窓の外へ視線をそらすと、ふと窓ガラスに映った自分の姿に気づいてぞっとした。憔悴して青褪めた顔。焦点のない虚ろな眸。その表情は、我ながらこの世の住人のものとは思えなかった。
 まるで幽霊か、それとも……
 ろくでもない妄執に囚われかけ、慌てて聡美は首をふる。
(あれは幻覚、幻覚なんだ。だから――)
 ……早く呼ぶの、あの名前を。
 頭痛の痺れにまぎれて、カヨちゃんの声がした。どうしてカヨちゃんは、そんなことを言うのだろう。怪人の名を呼べば、救われるとでもいうのか。それより頭が痛い。ならばいっそのこと……そこまで思い詰めた時、ポーンとチャイムが鳴った。アナウンスされたのは、ルートが分岐する公園前のバス停の名前だった。
(……そうだ、ここで降りなくちゃ)
 とっさに聡美は、降車ボタンを押した。バスはしばらく走って、冬枯れたケヤキが並ぶ歩道に横づけで停車した。
 やっとのことで重い体を引き上げると、乗客を掻きわけて降車口へ向かう。ふらつく足でステップを降りた聡美の頬を、冷たい風がひと撫でした。バスを降りたのは、聡美ひとりきりだった。それと引き換えに、またバスはぞろぞろと行列を呑みこんでゆく。
 ハザードのオレンジに照らされた顔は、みんな疲れていた。
 仄暗い並木道は、それで不意に人気が絶えた。
 そしてブザーと共にバスが走り去ると、聡美はとうとう悲鳴を上げる。ようやく灯り始めた街灯の下を、わき目もふらずに駆け出していた。なぜなら、渋滞を挟んだ通りの向こう側――バスの影から現れた、折り返しのバス停の頼りない電飾の隣に、無言で聡美を見つめる怪人の姿があったからだ。

[ 2017年07月08日 16:20 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)

伝怪 08

 聡美はそれから、ひとりで家にいられなくなった。家の中にひとりでいると、どこから母の影……いや、あの怪人に囚われるか、わからなくなったからだ。
 もちろんそれは、聡美が生み出した幻覚なのだろう。
 けれど、玄関の隅にクローゼットの陰。家の中にできたほんのわずかな闇の隙間からでも、いつも男は聡美を見つめていた。たとえば風呂で髪を洗っている時、夜眠ろうと目をつむった時、閉じたまぶたの裏の些細な闇からも、緋色に充血した目は聡美を捕まえようとする。そんな妄想が、聡美の頭には住みついてしまった。
 本当に馬鹿馬鹿しいことだと、自分でも思う。
 ただ、それが無性に怖かった。
 都市伝説の怪人など、現実には存在しない。そのくらい承知していても、どうしても不安が消せなかった。捕まって斬られれば、自分が自分ではなくなる。まじめにそう信じ始めている自分の頭が、なおさらに恐ろしくなっていた。
(だから……)
 また聡美は、父を頼った。
 ひとりでさえいなければ、怪人はそれ以上近づいてこない。
 父を恐れて母に助けを請い、今度は母が怖くて父に縋る。そんな自分が惨めで汚らわししかったが、突き上げた衝動は抑えようがなかった。
 はじめて幻覚が見えたあの日、聡美は父が帰るまでトイレで気を失っていた。揺り起こされた聡美は悲鳴を上げ取り乱し、父の首に両腕で縋りついた。その視線の先――廊下の端にできた闇から、まだ怪人はじぃっと聡美を見据えていた。その恐怖から逃れたい一心で、ついに聡美は自分から父を求めた。
 わけもわからず、その場で父とまぐわった。
 トイレから半身を投げ出し、父の上でつたなく腰をふった。
 行為が終わると、いつの間にか怪人は消えていた。放心状態の聡美を宥めると、父は噛み痕から血が滲んだ聡美の左手を治療してくれた。左手に包帯を巻かれながら、聡美は必死に母と怪人のことを話した。要領を得ない聡美の説明に困惑しつつも、父は泣きじゃくる聡美を抱きしめて言った。
「大丈夫……マサミのことは、ちゃんと守るから」
 母の名で呼ばれた不快感より、幻覚をふり払えたことで安堵した。
 そうして聡美も、被害者から加害者になった。
 加害者になった聡美は、もう父を責めることはできなかった。一度でも自分から求めてしまった事実が、うしろめたさになって聡美にのしかかっていた。あれほど嫌だった父との姦通も、今では聡美自身の罪となっていた。
 少なくとも、聡美の中では。
(それもやっぱり……)
 自分が弱いせいだからなのかと、聡美は自身に問いかける。
 教材のテキスト音声のような教師の声は、機械的に耳を滑っていた。これは数学の授業だったろうか、それとも化学の授業だったろうか。
 あれから数日。聡美は仕方なく、学校に出るようになっていた。父が帰るまでの空白の時間、どうにか人目のある場所で凌がなくてはならない。たとえ〝いないモノ〟扱いだったとしても、ここならその心配もいらないだろう。思案はしてみたが、経験値の低い聡美にはそれしか思いつかなった。
(……でないと、またあの怪人が)
 ――任せてしまいなさい、彼に……。
 まとまらない頭の中に、母の声が混じりさらに迷走する。自分はこれからどうすればいい? 担任に打ち明けて、懺悔でもするか? あるいは交番に駆け込み、父の犯されたと泣きわめくか? 考えるほど混乱は増し、思考が霧に埋もれてゆく。焦れて左手を噛みかけ、包帯に阻まれ気を取り直す。薄汚れた包帯の下で、傷はじくじく疼いた。無為な時間はたんたんとすぎ、答えは出ないまま午前の授業が終了する。
 給食の時間になると、配膳台が運び込まれ慌しく机の移動が始まった。
 申しわけ程度に班の横面だが、聡美も周りにならって机を合わせた。楽しげに響いてくるざわめきも、今だけはこころ強い。
 きのこご飯に、肉じゃが。ししゃも焼き、のりあえ、瓶の牛乳……粘土の味しかしないそれらのメニューを、聡美は目を伏せたまま黙々と口に運ぶ。班から無言の圧力はかかっていたが、それも気にしている余裕はなかった。あの赤い視線に怯えながらひとりで父の弁当を食べるより、この方がはるかにマシだった。ただ。
 父との爛れた生活が放つ、饐えた臭いを嗅ぎ取られてはいないか。それだけが気になって、聡美は闇雲に粘土の給食を詰め込んだ。
 授業がすべて終わると、もう陽は暮れかけていた。
 手元の携帯で確認すると、サブディスプレイに表示された時刻は四時少し前。ほんの数日で、日中がどんどん短くなる。怯えるだけの生活は、おなじ速度で聡美の精神も化膿させた。黄昏時。たそがれどき。……その由来が〝たそかれ〟だと教えてくれたのは、父だったろうか。高台から赤く染まった町を見渡し、ぼぅっと考える。
「たそかれの意味は〝誰そ彼〟。江戸時代は街灯もネオンもなかったから、この時間帯になるとすれ違うひとの顔も見えなかったんだな。それで、誰そ彼……ただし、声をかけてくるのが人間とは限らない。だから――」
 ああ、そうだ。たしかそんな呼び方も教えてくれた。
 ――逢魔時。
 夕焼けは、禍時を連れてくる。
 ならば聡美にとっての災いは、父なのか? 怪人なのか? いずれにしろ、この急な坂を下った先にそれは待っているのだろう。
 堀とは名ばかりのドブ川を越え、住宅地の迷路の中へ。ひとつ角を曲がると、不意に下校中の生徒の声が途切れた。耳を澄ますと、死角の向こうにざわめきは遠のいてゆく。目の前にはさらに角がふたつ。どちらも先の見通しはわるい。
 聡美は静かに唾を飲んだ。
 掠れて消えかけた〝止まれ〟の路面標示の上に、薄っすら闇がひそんでいる。
 息を殺してその角をやりすごすと、狭い道なりのカーブの先に、もうひとつの闇がじっとりと待ち構えていた。
 もしそこに、緋色の目が待っていたら?
 それよりも今、首筋に包帯巻きの腕が伸びてきたら?
 ありもしない気配に怯えながら、聡美は背後をふり返る。やはりそこには、傾斜地に並ぶ夕暮れの家々だけがひっそり佇んでいた。そうしている間にも、じりじりと陽は沈んでゆく。ふり返り、角を曲がる。角を曲がって、またふり返る。
 ようやく住宅地を抜けたところで、キィキィとペダルを漕ぐ音がした。
 飛び出しかけた心臓を押さえてふり向くと、時代錯誤な豆腐屋の自転車が、気の抜けたラッパを鳴らしながら聡美を追い抜いて行った。
 ほぉ、と震える息が大きく漏れた。
 乱れた鼓動を落ち着かせながら、ふたたび県道を目指す。
 きっと、父は帰っている。
 たとえ聡美を待っていなくても、そこには帰れる場所がある。
 結局、聡美にはそれしか頼るものがなかった。父との関係が明るみに出れば、父は職を失い、聡美も路頭に迷うことになる。施設に入ることになっても、そんなものは居場所がなくなるのとおなじだ。父も、聡美も、聡美たちを追い詰めた奴らも、みんなみんな消えてしまえばいいが、それだって現実には不可能だ。聡美さえ我慢していれば、それで丸く収まるのだ。だから、急いで帰ろう。父の作ったおでんをふたりで食べ、今夜も人形になって呪われた儀式をやりすごそう。
 ほら、もう歩道橋だって見えてきた。
 この階段を上りきって、県道を渡って向う側へ。
 足元はだいぶ暗くなったけれど、まだ陽は落ちきっていない。コの字型に折れた踊り場を抜ければ、団地までひと息だ。
 けれど――
 やはりそいつは、じぃっと見つめていた。
 歩道橋の階段の天辺から、踊り場の聡美を見下ろしていた。
 だらりと垂らした日本刀が、鈍色に残光を照り返す。全身の包帯は、膿とも脂ともつかないシミでどこと言わず薄汚れている。
「ひッ……」
 反射的に出かかった怪人の名は、喉の奥で押し殺した。
 夕日に染まってなお赤い目が、聡美の視線と絡み合う。顔中の包帯から覗く、白目も黒目もない血色の眸だ。聡美は思わず身を引いて、硬直したまま後退る。心臓がギシギシ痛み、左手で制服の胸元を握りしめる。
 その左手を追って、ぐるりと赤い視線が動いた。
 なぜ、と思う間もなく聡美は身を翻した。今きた階段をひと息に駆け降りると、県道に沿って走り出す。嫌だ、嫌だ、嫌だ。わたしばっかり、どうしてこんな目に……問いかけると、ひさびさの頭痛と一緒に母の声が返ってきた。だから言ったでしょう? いや、そうじゃない。これはカヨちゃんの声か……ふり払おうと夢中で走るうち、ほどなく進んだバス停で折よくバスが捉まった。行き先も確認せずに飛び乗った。
 ブザー。アナウンス。閉まる乗車ドア。
 息をきらせて顔をあげると、乗客の視線が揃って聡美に向けられていた。混雑というほどではなかったが、車内の座席はすべて埋まっていた。その無数の視線に囲まれて、聡美はどうにか安堵の息を漏らす。これだけの人目があれば、怪人も追ってはこれまい。そう確信しながら、乗客の間をぬってよろよろと最後尾まで進む。
 すると一段あがった後部座席の窓側から、
「だ、大丈夫かい。お嬢ちゃん……顔色わるいけど」
 と、白髪の男の声がかかった。
 困惑しながら席を譲る男の申し出は、遠慮せずに受けた。それを待っていたように、バスはゆっくりと夕暮れの町に向けて発車する。
 そっと肩越しにふり返った歩道橋には、すでに怪人の姿はなかった。
 窓にそえた左手の包帯が、なぜか緩んで解けかけていた。

[ 2017年07月01日 08:25 ] カテゴリ:伝怪 | TB(-) | CM(-)
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