「小説」
伝怪

伝怪 10

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 あとは、どこをどう走ったのか覚えていない。いつの間にか公園に飛び込んでいた聡美は、遊歩道を滅茶苦茶にぬって、気がつくと図書館の前に立っていた。
 肩を喘がせ、鞄を抱きしめそのシルエットを見上げる。
 常緑樹の生垣で公園から仕切られた、サイコロを重ねたような独特の形――無意識に知った道をたどったのか。ただの偶然なのか。どちらにしろ、暗がりに浮かぶ見慣れたタイル張りの建物が、今はとても頼もしかった。
(よかった、ここなら……)
 ひとまずの安息を得たせいか、ほっとして上気した頬が緩む。
 慣れない全力疾走で肺は破裂しそうだったが、恐怖から解き放たれた安堵でそんなものは気にならなかった。北風にさらわれる落ち葉が捌けるように、さぁっと頭痛も引いていった。そのころにはもう、自分が正気かどうかもどうでもよくなっていた。
 ――とにかく、一刻も早く中へ。
 はやる気持ちを抑えながら、聡美は図書館の自動ドアを潜る。平日の夕方ということもあり、館内に思いのほか利用者は少なかった。それでも人の気配があるだけで、本当にありがたかった。まずは、ここで気を静めよう。混乱した頭を、もう一度整理しよう。そんなことを考えながら、エントランスからロビーへ入る。周囲の目に気をつけながら、大きく深呼吸をひとつした。
 どこか埃くさい、読み込まれた古い紙の匂い。
 嗅ぎ慣れたその匂いを胸いっぱいに吸い込むと、ほんの少しだけ落ち着いた。荒んでいた精神が、ひさしぶりに凪ぐのを感じた。
(そういえば、図書館にくるのなんて何週間ぶりだろう)
 どうにか巡り始めた頭で、なにげなくそう考える。
 ずっと張り詰めていたものが、ふっと途切れるのがわかった。
 もともと聡美が読書を始めたのは、例の噂が広まった小六のころからだった。理不尽な孤独をまぎらわすため、気になった本は手当たりしだいに読んだ。もっともそれは、小説や詩集が大半だったが、だから聡美は自分を愛読家だとは思っていない。毎週末をこの図書館ですごしたのも、わずらわしい周囲の目をさけるためだった。
 けれど知らぬ間に、聡美にとってここは安らぎの場になっていたらしい。ここしばらくは、そんな時間すら奪われていた。
 さっきまでの身の竦む恐怖も忘れ、しみじみと館内を見渡してみる。
 受付カウンターには、よく顔を見る女性職員がいた。今年の春先の配属以来、聡美の顔を覚えているらしいその若い司書は、あら、という表情をしてから、にこやかに聡美に目礼した。聡美も戸惑いながら、伏し目がちにお辞儀をする。
 余計な人間関係を嫌う聡美は、もちろん一度も彼女と声を交わしたことはない。でも今はその気遣いが、なんだか無性に嬉しかった。
 受付の対面には視聴覚コーナーがあって、インターネットスペースに大学生らしい人影がポツポツと見えた。受付で申請すればノートパソコンの貸し出しもあったが、アナログ派の聡美はここには用がなかった。
 あとはその先に、会議等に使う多目的スペースが。
 こちらはこの時間だと、利用者がいる様子はさすがにない。すべて馴染み深い変わらない風景――ほんの数週間ぶりなのに、なぜかだかとても懐かしい気がした。
 そのお陰もあってか、じょじょに聡美も平静を取り戻してゆく。ロビーを横ぎり二階への階段を上るころには、現実の……といっても怪人は幻覚だが……忌まわしさからも解放され、足取りもだいぶ軽くなっていた。
 二階は開架図書になっていて、ずらりと書架が並んでいる。
 やはりこちらにも、さほど人はいなかった。児童書を含むキッズコーナーが無人なのは当然のこと、一般向けの閲覧席にも間を置いて二、三人――大きな机をそれそれぞれが独占する形で、資料を広げてレポートらしき作業に没頭している女子大生風や、本を積み上げて読みふける、暇つぶしらしき若者たちが確認できるだけだった。
 書架の間にはまだ誰かいるかもしれないけれど、階段側からでは死角になってよくわからない。少なくとも、気配は感じられない。
 とりあえず、何冊か見繕って……。
 そう考えた聡美は、詩集の棚に足を向ける。混乱した頭を覚ますには、物語より純粋な言葉の結晶の方が適しているような気がしたから。
 ――と、その時。
 鞄の中で断続的に振動音がした。驚いて飛び上がりそうになった聡美は、あっ、と小さく声を漏らして立ちつくす。そういえば携帯の電源をきっていなかった。いつもなら、絶対に忘れたりなんかしないのに。
「え、えっと……携帯」
 初歩のミスに狼狽えながら、もそもそと鞄を探る。
 ようやく携帯を取り出してため息をつくと、閲覧席から露骨な咳払いが聞こえた。レポートに熱中していた、さっきの女子大生風だ。それが口火になって、連鎖するように視線が集中する。聡美はおどおどと頭を下げると、手近な書架の間に飛び込んだ。
「あぁ……」
 慌てて確認してみると、父からのメールが数件ほど着信していた。
 手早く携帯を開き、タイトルにだけ目を通す。内容は読まなくても把握できた。『電車が止まっている』『夕飯は遅くなる』。最初の何件かは、聡美がバスで呆けていたころのメールだ。数秒だけ迷って、聡美は返信せずに電源をきった。
(なにも、このタイミングで……)
 今さら罪悪感はなかった。
 どうせ父がメールしたのは、聡美ではなく記号になのだから。気がかりがひとつ解消した安心感よりも、不意を突かれたことに苛立った。
 一瞬、父に対してなにかが点灯した。
 昏い昏い、こころの奥底から産まれた、赤黒く澱んだなにか。
 わたしがこんな思いをしている時に……どうせ必要なのは人形のくせに……急速に膨らんだ激情に動揺し、はっとして我に返る。やめよう。わたしは記号だ。人形なんだ。こんな恐ろしい感情は……気を取り直して、書棚を見上げる。とっさのことで気づかなかったが、参考図書の棚のようだった。
 一般的な辞典や図鑑に混じって、宗教や民俗学の書籍も並んでいる。
 ――民俗学。
 父が専門としている分野。
「まったく……」
 思わず口に出て、首をふって詩集の棚に足を向ける。見るともなしに棚のつづきに視線を滑らせてゆくと、端の一角で目が留まった。雑学のラベルが貼られた一群に、見覚えのあるぶ厚い文庫がぽつんとあった。なんの変哲もない灰色の背表紙だが、ひねりのない安直すぎるタイトルも薄っすらと頭の隅に残っている。
『図説・現代妖奇考』
 記憶の中の――あるいは夢の中の、父が読んでいた愛読書だ。
 ぞわりと、なにかが背筋を這う感覚があった。
 恐怖や嫌悪ではなく、予感のようなもの。思わず手に取って、聡美は閲覧席へと向かった。閲覧用の机は書架から窓よりにあり、窓際にはカウンターになったひとり掛けの席が並んでいる。ちょっと迷っていると、咳払いの女子大生風と目が合った。その睨むような視線に気圧され、机から一番離れたカウンターの奥の席に座った。
 席に着くと、ひと息ついて表紙を撫でる。
 暗い深緑をバックに、黄色でタイトルが印刷された表紙だ。
 裏表紙には〝妖怪から都市伝説へ〟のうたい文句と、著者の持論を云々という簡略な内容説明が書いてある。……都市伝説。その文字が目に飛び込んできたとたん、聡美は生唾を飲み込んだ。どうする。やはり読むのはやめようか。
 今なら、素知らぬ顔で本棚に戻すだけ。
 なにくわぬふりで、詩集の棚に行って本を選び直せばいい。でも。
(うぅん、これもなにかの縁だ)
 そう覚悟して、聡美は表紙に手をかける。それにひょっとすると、あの幻覚の原因がなにかもわかるかもしれない。妖怪。都市伝説。こころの闇。父はそれを、人間の営みそのものだと言った。そこにどんな繋がりがあるか皆目見当はつかないけれど、わずかでもその辺りに触れることができれば、聡美自身の異変にも説明がつくのかも。
 わけもなくそんな気がして、ゆっくりと表紙をめくる。
 なにかに憑りつかれたとすれば、この時なのかもしれない。

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