「小説」
伝怪

伝怪 14

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 老人の言葉は、ゆっくりと聡美の隅々に広がっていった。
 こころだけではなく、体中全体に。耳から脳へ。脳から心臓へ。心臓から胸、肩、手足へと、赤黒い血液と一緒に沁み通ってゆく。
 そうか。そうなのか。よかったのだ、あれで。危うく聡美も、図鑑の女房とおなじように決めつけてしまうところだった。捕えにきたのではなく、救いに……だから母もカヨちゃんも、任せてしまえと言ったのだ。
 夢うつつのまま考えながら、ガラスに映った老人を見上げる。
 老人は、うんうんとにこやかに頷いている。
 静かに目を閉じ、これまでのことを思い返す。聡美を捨てて去った母も、聡美に呪いの視線を投げつけたカヨちゃんも、理不尽な風評で聡美を苦しめた連中も、聡美を記号扱いして穢した父も、そして――そんな扱いを、甘んじて受け入れた弱い自分も。すべてが馬鹿馬鹿しくなって、自然と笑みがこぼれた。ああ、本当に晴れやかな気分だ。こんなに爽快なのは、何年ぶりだろう。
 こころに立ち込めた霧が、一斉に退いてゆく。
 その向こうの暗闇から、包帯巻きの腕が手まねきをする。
 と、そこで――
「……あの、すみません」
 背後から急に、声がかかった。なにかに怯えたような、少し震えた女性の声。
 はい、と軽やかに答えると、聡美は目を開く。夜闇を背負った窓には、受付にいた女性職員が映っていた。いつもの愛想のいい笑顔ではなく、不気味なものを見るような青褪めた顔で、やや遠巻きにガラスの中の聡美を覗き込んでいる。
「ええっと、なにか……?」
「いえ、その……」
 聡美がにっこり微笑むと、女性職員は口籠った。
 閲覧席の方からは、ひそひそささやき合う声が聞こえてくる。
 そういえば、お爺さんは?
 さっきまでそこに立って、聡美と話をしていたのに。
 不思議に思った聡美が振り返ると、ひっ、と声を殺して女性職員は身を引いた。構わず辺りを見まわすが、やはり老人は見当たらない。職員に驚いて、いなくなってしまったのだろうか? うっかりして、名前を聞くのを忘れてしまった……つらつらそんなことを考えていると、表情を凍らせた女性職員から、たどたどしく警告の言葉が漏れた。やっと絞り出したような、引きつった声だった。
「他の方のご迷惑になるので……館内ではお静かに」
 それだけ言い残して、女性職員は逃げるように去ってゆく。
 聡美はきょとんとしたまま、瞬きをくり返す。
 しばらくじっくり考えて、ここが図書館だということを思い出した。いけない。話に夢中になって、とんでもないマナー違反をしてしまった。なるほど、それで老人は職員の姿を見て慌てて逃げてしまったのか。
 勝手に納得して、のろのろと閲覧席を見渡してみる。
 聡美と目が合いかけた利用者たちが、慌てて顔を背けた。
 まあ、やってしまったことは仕方ない。聡美はぺこりと閲覧席に頭を下げると、鞄を抱えて開架図書をあとにする。
「……まったく、ひとり言なんて」
 その背中には女子大生風の呟きも届いていたが、特に気にはならなかった。今さら他人の目なんてどうでもいい。誰がなにを言おうと、聡美の目的は果たされた。あの老人のお陰で、こんなに気分が軽くなったのだから。

 住宅街の停留所にバスが着くころには、辺りは真っ暗になっていた。
 どこか弾んだこころ持ちで、聡美は顔を上げてみる。
 寒々と澄み渡った空には、月も星もない。家々の明かりをつつみ込む、漆黒の夜。魔物が自由に跋扈していたころのような、黒々した真の闇……ポツポツと街灯が歩道を照らしていても、それはまやかしの灯だ。
 闇は人の外側だけでなく、内側にもある。
 聡美はもう、その闇に恐れを感じることはない。
 まだ浮遊感の残る足取りで、歩道橋の階段を踏みしめた。眼下に横たわる県道も、渋滞が捌けて闇に沈み込んでいる。時折行きかう車のヘッドライトだけが、かすかに文明の息吹を感じさせるだけだった。
 ――なんて、静かな夜なんだろう。
 県道とまじわるわき道をたどりながら、聡美はそう思った。
 遊び歩く子供を叱る声。やたらボリューム上げたテレビの音。いつもなら耳に障る団地の生活音も、なぜか今夜は聞こえない。
 まるですべてが、聡美のためにお膳立てしてくれているようだった。思わず気分が高揚して、頬が赤らむのがわかった。知らずに早足になって、家へとつづく私道を目指していた。荒くなった息が、白く凍って闇の中に散ってゆく。
 ああ、いい感じだ。
 これならきっと、行き会うことができる。
 そんな予感がして、無我夢中で歩いた。汗ばみ始めた肌に、ブラウスが纏わりつく。やたら体が火照ってきて、リボンタイを解いて投げ捨てた。もう、鞄だっていらない。こんなものは、あの植え込みの中に放り込んでしまえばいい。だって聡美は、今から聡美ではなくなるのだから。そうして全部が終わったら、次は自分のように苦しむ人に救いの手をのべる存在になれるのだ。
 聡美のために、母がそうしてくれたように。
 聡美のために、カヨちゃんがそうしてくれたように。
 やがて交差路が見えてくると、キィキィと錆びた金属音か響いてくる。
 背後から、奇妙な歌声が聞こえてくる。
 トン、トン、トンカラ……トン。
 ――トン、トン、トンカラトン……。
 胸をときめかせながら、左手の包帯を解いた。今度こそおまじないで、彼の邪魔をしないように。その間も、決して歩調は緩めたりしない。あと五メートル……三メートル……もうすぐだ。もうすぐまた彼に会える。すると突然、
「……トンカラトンと、言え」
 耳元で声がした。
 聡美は開放の歓喜に身を震わせる。
 ふり向いた視線の先には、ただ彼がいた。錆だらけの自転車にまたがって、じっとまっ赤な目で、聡美を見つめていた。
 血濡れた包帯で巻きしめた、痩せぎすの体。右手にふり上げた、白々と光る日本刀。全身がどこか歪んで見えるのは、聡美のつたない記憶のせいだろう。父の描きなぐったイラストのまま、聡美の望んだ姿のまま、彼は現象としてそこにいた。
 けれど、聡美は彼の要求には応えない。
 応えてしまえば、彼は去ってしまうルールだから。
「ありがとう……」
 小さくそう、呟いてみる。
 現象である彼は、たんたんと役目を遂行する。
 頭上で閃いた白刃が、まだ薄い聡美の胸めがけて振り下ろされた。
 聡美は無言で微笑むと、両手を広げてそれを受け止めた。
 そして聡美は、彼になった。
 彼になった聡美も、役目を果たさなければならない。
 私道から団地の敷地に入り、公園をすり抜けて八号棟へ。薄暗い階段を三回折れた先には、ペンキの剥げかけた鉄扉がある。
 音を立てないよう注意して、ドアノブをまわす。
 ダイニングからは、夕食の支度をする音が聞こえている。キッチンでは、鼻歌まじりの男が包丁をふるっていた。聡美だった彼はスカートの隠しポケットを探ると、かつてそうしたように男の背後に近づいてゆく。
 その手のひらの中で、カチカチとカッターの刃が音を立てた。

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