我と我が身と彼のものと。

常在辞世。渋枯れ好みの“詫びオタク”…なんとなく更新中。

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伝怪 10 

伝怪

 あとは、どこをどう走ったのか覚えていない。いつの間にか公園に飛び込んでいた聡美は、遊歩道を滅茶苦茶にぬって、気がつくと図書館の前に立っていた。
 肩を喘がせ、鞄を抱きしめそのシルエットを見上げる。
 常緑樹の生垣で公園から仕切られた、サイコロを重ねたような独特の形――無意識に知った道をたどったのか。ただの偶然なのか。どちらにしろ、暗がりに浮かぶ見慣れたタイル張りの建物が、今はとても頼もしかった。
(よかった、ここなら……)
 ひとまずの安息を得たせいか、ほっとして上気した頬が緩む。
 慣れない全力疾走で肺は破裂しそうだったが、恐怖から解き放たれた安堵でそんなものは気にならなかった。北風にさらわれる落ち葉が捌けるように、さぁっと頭痛も引いていった。そのころにはもう、自分が正気かどうかもどうでもよくなっていた。
 ――とにかく、一刻も早く中へ。
 はやる気持ちを抑えながら、聡美は図書館の自動ドアを潜る。平日の夕方ということもあり、館内に思いのほか利用者は少なかった。それでも人の気配があるだけで、本当にありがたかった。まずは、ここで気を静めよう。混乱した頭を、もう一度整理しよう。そんなことを考えながら、エントランスからロビーへ入る。周囲の目に気をつけながら、大きく深呼吸をひとつした。
 どこか埃くさい、読み込まれた古い紙の匂い。
 嗅ぎ慣れたその匂いを胸いっぱいに吸い込むと、ほんの少しだけ落ち着いた。荒んでいた精神が、ひさしぶりに凪ぐのを感じた。
(そういえば、図書館にくるのなんて何週間ぶりだろう)
 どうにか巡り始めた頭で、なにげなくそう考える。
 ずっと張り詰めていたものが、ふっと途切れるのがわかった。
 もともと聡美が読書を始めたのは、例の噂が広まった小六のころからだった。理不尽な孤独をまぎらわすため、気になった本は手当たりしだいに読んだ。もっともそれは、小説や詩集が大半だったが、だから聡美は自分を愛読家だとは思っていない。毎週末をこの図書館ですごしたのも、わずらわしい周囲の目をさけるためだった。
 けれど知らぬ間に、聡美にとってここは安らぎの場になっていたらしい。ここしばらくは、そんな時間すら奪われていた。
 さっきまでの身の竦む恐怖も忘れ、しみじみと館内を見渡してみる。
 受付カウンターには、よく顔を見る女性職員がいた。今年の春先の配属以来、聡美の顔を覚えているらしいその若い司書は、あら、という表情をしてから、にこやかに聡美に目礼した。聡美も戸惑いながら、伏し目がちにお辞儀をする。
 余計な人間関係を嫌う聡美は、もちろん一度も彼女と声を交わしたことはない。でも今はその気遣いが、なんだか無性に嬉しかった。
 受付の対面には視聴覚コーナーがあって、インターネットスペースに大学生らしい人影がポツポツと見えた。受付で申請すればノートパソコンの貸し出しもあったが、アナログ派の聡美はここには用がなかった。
 あとはその先に、会議等に使う多目的スペースが。
 こちらはこの時間だと、利用者がいる様子はさすがにない。すべて馴染み深い変わらない風景――ほんの数週間ぶりなのに、なぜかだかとても懐かしい気がした。
 そのお陰もあってか、じょじょに聡美も平静を取り戻してゆく。ロビーを横ぎり二階への階段を上るころには、現実の……といっても怪人は幻覚だが……忌まわしさからも解放され、足取りもだいぶ軽くなっていた。
 二階は開架図書になっていて、ずらりと書架が並んでいる。
 やはりこちらにも、さほど人はいなかった。児童書を含むキッズコーナーが無人なのは当然のこと、一般向けの閲覧席にも間を置いて二、三人――大きな机をそれそれぞれが独占する形で、資料を広げてレポートらしき作業に没頭している女子大生風や、本を積み上げて読みふける、暇つぶしらしき若者たちが確認できるだけだった。
 書架の間にはまだ誰かいるかもしれないけれど、階段側からでは死角になってよくわからない。少なくとも、気配は感じられない。
 とりあえず、何冊か見繕って……。
 そう考えた聡美は、詩集の棚に足を向ける。混乱した頭を覚ますには、物語より純粋な言葉の結晶の方が適しているような気がしたから。
 ――と、その時。
 鞄の中で断続的に振動音がした。驚いて飛び上がりそうになった聡美は、あっ、と小さく声を漏らして立ちつくす。そういえば携帯の電源をきっていなかった。いつもなら、絶対に忘れたりなんかしないのに。
「え、えっと……携帯」
 初歩のミスに狼狽えながら、もそもそと鞄を探る。
 ようやく携帯を取り出してため息をつくと、閲覧席から露骨な咳払いが聞こえた。レポートに熱中していた、さっきの女子大生風だ。それが口火になって、連鎖するように視線が集中する。聡美はおどおどと頭を下げると、手近な書架の間に飛び込んだ。
「あぁ……」
 慌てて確認してみると、父からのメールが数件ほど着信していた。
 手早く携帯を開き、タイトルにだけ目を通す。内容は読まなくても把握できた。『電車が止まっている』『夕飯は遅くなる』。最初の何件かは、聡美がバスで呆けていたころのメールだ。数秒だけ迷って、聡美は返信せずに電源をきった。
(なにも、このタイミングで……)
 今さら罪悪感はなかった。
 どうせ父がメールしたのは、聡美ではなく記号になのだから。気がかりがひとつ解消した安心感よりも、不意を突かれたことに苛立った。
 一瞬、父に対してなにかが点灯した。
 昏い昏い、こころの奥底から産まれた、赤黒く澱んだなにか。
 わたしがこんな思いをしている時に……どうせ必要なのは人形のくせに……急速に膨らんだ激情に動揺し、はっとして我に返る。やめよう。わたしは記号だ。人形なんだ。こんな恐ろしい感情は……気を取り直して、書棚を見上げる。とっさのことで気づかなかったが、参考図書の棚のようだった。
 一般的な辞典や図鑑に混じって、宗教や民俗学の書籍も並んでいる。
 ――民俗学。
 父が専門としている分野。
「まったく……」
 思わず口に出て、首をふって詩集の棚に足を向ける。見るともなしに棚のつづきに視線を滑らせてゆくと、端の一角で目が留まった。雑学のラベルが貼られた一群に、見覚えのあるぶ厚い文庫がぽつんとあった。なんの変哲もない灰色の背表紙だが、ひねりのない安直すぎるタイトルも薄っすらと頭の隅に残っている。
『図説・現代妖奇考』
 記憶の中の――あるいは夢の中の、父が読んでいた愛読書だ。
 ぞわりと、なにかが背筋を這う感覚があった。
 恐怖や嫌悪ではなく、予感のようなもの。思わず手に取って、聡美は閲覧席へと向かった。閲覧用の机は書架から窓よりにあり、窓際にはカウンターになったひとり掛けの席が並んでいる。ちょっと迷っていると、咳払いの女子大生風と目が合った。その睨むような視線に気圧され、机から一番離れたカウンターの奥の席に座った。
 席に着くと、ひと息ついて表紙を撫でる。
 暗い深緑をバックに、黄色でタイトルが印刷された表紙だ。
 裏表紙には〝妖怪から都市伝説へ〟のうたい文句と、著者の持論を云々という簡略な内容説明が書いてある。……都市伝説。その文字が目に飛び込んできたとたん、聡美は生唾を飲み込んだ。どうする。やはり読むのはやめようか。
 今なら、素知らぬ顔で本棚に戻すだけ。
 なにくわぬふりで、詩集の棚に行って本を選び直せばいい。でも。
(うぅん、これもなにかの縁だ)
 そう覚悟して、聡美は表紙に手をかける。それにひょっとすると、あの幻覚の原因がなにかもわかるかもしれない。妖怪。都市伝説。こころの闇。父はそれを、人間の営みそのものだと言った。そこにどんな繋がりがあるか皆目見当はつかないけれど、わずかでもその辺りに触れることができれば、聡美自身の異変にも説明がつくのかも。
 わけもなくそんな気がして、ゆっくりと表紙をめくる。
 なにかに憑りつかれたとすれば、この時なのかもしれない。

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伝怪 09 

伝怪

 やがてバスは市街地を経由し、郊外の新興住宅地を目指してゆく。
 県道をそれ、私鉄の線路を潜るアンダーパスを通過するころには、町はすっかり宵闇の青につつまれていた。
 帰宅時間も近づいたのか、バス停のたびに乗客も増えてゆく。
 聡美はただぼんやりと、それを眺めていた。
(大丈夫、大丈夫――)
 ここにはもう怪人はいない。それに冷静になってみれば、あれはただの幻覚だ。どんなにはっきり見えても、実際に襲ってくるはずはない。だから、家に帰ろう。早くバスを降りて、遅れを取り戻そう。でないと、また父が取り乱す。今度こそ、帰る場所がなくなってしまう。それはわかっていても、頭痛で鈍る頭が行動に移すのを拒絶した。
 たまに流れる車内アナウンスも頭に入ってこなかったが、バスの終点ならおおよそ見当はついた。国立病院の前を通るこのルートなら、国道沿いの県営公園を境に、バイパスに入るか父の勤務するキャンパスに着くかのどちらかだ。
 降りるなら、県営公園の前。
 公園といっても、かなり敷地は広い。テニスコートもあれば、野外ステージもある。市役所沿いの二区画を使用した、県外にも名の知れた公園だ。敷地内には市立図書館もあって、聡美も休日にはよく利用している。
 とにかく、早く引き返さなければ。そうは思うが、一向に気力がわいてこない。
(わたしは、なにをしてるんだろう……)
 聡美は自分の反応に戸惑いを覚えつつ、窓の外に視線を投げる。すでに渋滞の始まった対向車線は、テールランプのまっ赤な連なりが駅までつづいていた。仮に今すぐ折り返しのバスを捉まえても、とても夕食には間に合わない。行き詰ってバスのシートに背をゆだねると、当たり前のように不吉な疑念が首をもたげてきた。やっぱりわたしの頭は、おかしくなってしまったのだろうか?
(違う、ちょっと疲れてるだけだ。きっとそうだ)
 必死に否定してみるが、もつれた思考は堂々巡りするだけだった。
 じゃあ、この頭痛は?
 さっきの気味わるい怪人は?
 どちらにしろ、幻覚から逃げ出す時点でどうかしている。そんな気もして、そら寒くなって肩を抱いた。そもそも、こんな都市伝説がなぜ怖いのか? 子供だましのおふざけじゃないか? 考えるほど頭痛は酷くなり、脳裏にノイズのような言葉が蘇る。
 ……人間は、弱くて脆い……こころのバランスが……そんな時の……緊急回避……昔から……妖怪……都市伝説……通り物……。
 ――通り物?
 たしか妖怪の名前だ。ということは、これは父の声。
 なにか記憶に引っかかっている。引っかかってはいるが、どうしても思い出せない。思い出さなくてはいけない気もするし、決して思い出してはいけない気もする。もどかしさから逃れるようにふたたび窓の外へ視線をそらすと、ふと窓ガラスに映った自分の姿に気づいてぞっとした。憔悴して青褪めた顔。焦点のない虚ろな眸。その表情は、我ながらこの世の住人のものとは思えなかった。
 まるで幽霊か、それとも……
 ろくでもない妄執に囚われかけ、慌てて聡美は首をふる。
(あれは幻覚、幻覚なんだ。だから――)
 ……早く呼ぶの、あの名前を。
 頭痛の痺れにまぎれて、カヨちゃんの声がした。どうしてカヨちゃんは、そんなことを言うのだろう。怪人の名を呼べば、救われるとでもいうのか。それより頭が痛い。ならばいっそのこと……そこまで思い詰めた時、ポーンとチャイムが鳴った。アナウンスされたのは、ルートが分岐する公園前のバス停の名前だった。
(……そうだ、ここで降りなくちゃ)
 とっさに聡美は、降車ボタンを押した。バスはしばらく走って、冬枯れたケヤキが並ぶ歩道に横づけで停車した。
 やっとのことで重い体を引き上げると、乗客を掻きわけて降車口へ向かう。ふらつく足でステップを降りた聡美の頬を、冷たい風がひと撫でした。バスを降りたのは、聡美ひとりきりだった。それと引き換えに、またバスはぞろぞろと行列を呑みこんでゆく。
 ハザードのオレンジに照らされた顔は、みんな疲れていた。
 仄暗い並木道は、それで不意に人気が絶えた。
 そしてブザーと共にバスが走り去ると、聡美はとうとう悲鳴を上げる。ようやく灯り始めた街灯の下を、わき目もふらずに駆け出していた。なぜなら、渋滞を挟んだ通りの向こう側――バスの影から現れた、折り返しのバス停の頼りない電飾の隣に、無言で聡美を見つめる怪人の姿があったからだ。

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伝怪 08 

伝怪

 聡美はそれから、ひとりで家にいられなくなった。家の中にひとりでいると、どこから母の影……いや、あの怪人に囚われるか、わからなくなったからだ。
 もちろんそれは、聡美が生み出した幻覚なのだろう。
 けれど、玄関の隅にクローゼットの陰。家の中にできたほんのわずかな闇の隙間からでも、いつも男は聡美を見つめていた。たとえば風呂で髪を洗っている時、夜眠ろうと目をつむった時、閉じたまぶたの裏の些細な闇からも、緋色に充血した目は聡美を捕まえようとする。そんな妄想が、聡美の頭には住みついてしまった。
 本当に馬鹿馬鹿しいことだと、自分でも思う。
 ただ、それが無性に怖かった。
 都市伝説の怪人など、現実には存在しない。そのくらい承知していても、どうしても不安が消せなかった。捕まって斬られれば、自分が自分ではなくなる。まじめにそう信じ始めている自分の頭が、なおさらに恐ろしくなっていた。
(だから……)
 また聡美は、父を頼った。
 ひとりでさえいなければ、怪人はそれ以上近づいてこない。
 父を恐れて母に助けを請い、今度は母が怖くて父に縋る。そんな自分が惨めで汚らわししかったが、突き上げた衝動は抑えようがなかった。
 はじめて幻覚が見えたあの日、聡美は父が帰るまでトイレで気を失っていた。揺り起こされた聡美は悲鳴を上げ取り乱し、父の首に両腕で縋りついた。その視線の先――廊下の端にできた闇から、まだ怪人はじぃっと聡美を見据えていた。その恐怖から逃れたい一心で、ついに聡美は自分から父を求めた。
 わけもわからず、その場で父とまぐわった。
 トイレから半身を投げ出し、父の上でつたなく腰をふった。
 行為が終わると、いつの間にか怪人は消えていた。放心状態の聡美を宥めると、父は噛み痕から血が滲んだ聡美の左手を治療してくれた。左手に包帯を巻かれながら、聡美は必死に母と怪人のことを話した。要領を得ない聡美の説明に困惑しつつも、父は泣きじゃくる聡美を抱きしめて言った。
「大丈夫……マサミのことは、ちゃんと守るから」
 母の名で呼ばれた不快感より、幻覚をふり払えたことで安堵した。
 そうして聡美も、被害者から加害者になった。
 加害者になった聡美は、もう父を責めることはできなかった。一度でも自分から求めてしまった事実が、うしろめたさになって聡美にのしかかっていた。あれほど嫌だった父との姦通も、今では聡美自身の罪となっていた。
 少なくとも、聡美の中では。
(それもやっぱり……)
 自分が弱いせいだからなのかと、聡美は自身に問いかける。
 教材のテキスト音声のような教師の声は、機械的に耳を滑っていた。これは数学の授業だったろうか、それとも化学の授業だったろうか。
 あれから数日。聡美は仕方なく、学校に出るようになっていた。父が帰るまでの空白の時間、どうにか人目のある場所で凌がなくてはならない。たとえ〝いないモノ〟扱いだったとしても、ここならその心配もいらないだろう。思案はしてみたが、経験値の低い聡美にはそれしか思いつかなった。
(……でないと、またあの怪人が)
 ――任せてしまいなさい、彼に……。
 まとまらない頭の中に、母の声が混じりさらに迷走する。自分はこれからどうすればいい? 担任に打ち明けて、懺悔でもするか? あるいは交番に駆け込み、父の犯されたと泣きわめくか? 考えるほど混乱は増し、思考が霧に埋もれてゆく。焦れて左手を噛みかけ、包帯に阻まれ気を取り直す。薄汚れた包帯の下で、傷はじくじく疼いた。無為な時間はたんたんとすぎ、答えは出ないまま午前の授業が終了する。
 給食の時間になると、配膳台が運び込まれ慌しく机の移動が始まった。
 申しわけ程度に班の横面だが、聡美も周りにならって机を合わせた。楽しげに響いてくるざわめきも、今だけはこころ強い。
 きのこご飯に、肉じゃが。ししゃも焼き、のりあえ、瓶の牛乳……粘土の味しかしないそれらのメニューを、聡美は目を伏せたまま黙々と口に運ぶ。班から無言の圧力はかかっていたが、それも気にしている余裕はなかった。あの赤い視線に怯えながらひとりで父の弁当を食べるより、この方がはるかにマシだった。ただ。
 父との爛れた生活が放つ、饐えた臭いを嗅ぎ取られてはいないか。それだけが気になって、聡美は闇雲に粘土の給食を詰め込んだ。
 授業がすべて終わると、もう陽は暮れかけていた。
 手元の携帯で確認すると、サブディスプレイに表示された時刻は四時少し前。ほんの数日で、日中がどんどん短くなる。怯えるだけの生活は、おなじ速度で聡美の精神も化膿させた。黄昏時。たそがれどき。……その由来が〝たそかれ〟だと教えてくれたのは、父だったろうか。高台から赤く染まった町を見渡し、ぼぅっと考える。
「たそかれの意味は〝誰そ彼〟。江戸時代は街灯もネオンもなかったから、この時間帯になるとすれ違うひとの顔も見えなかったんだな。それで、誰そ彼……ただし、声をかけてくるのが人間とは限らない。だから――」
 ああ、そうだ。たしかそんな呼び方も教えてくれた。
 ――逢魔時。
 夕焼けは、禍時を連れてくる。
 ならば聡美にとっての災いは、父なのか? 怪人なのか? いずれにしろ、この急な坂を下った先にそれは待っているのだろう。
 堀とは名ばかりのドブ川を越え、住宅地の迷路の中へ。ひとつ角を曲がると、不意に下校中の生徒の声が途切れた。耳を澄ますと、死角の向こうにざわめきは遠のいてゆく。目の前にはさらに角がふたつ。どちらも先の見通しはわるい。
 聡美は静かに唾を飲んだ。
 掠れて消えかけた〝止まれ〟の路面標示の上に、薄っすら闇がひそんでいる。
 息を殺してその角をやりすごすと、狭い道なりのカーブの先に、もうひとつの闇がじっとりと待ち構えていた。
 もしそこに、緋色の目が待っていたら?
 それよりも今、首筋に包帯巻きの腕が伸びてきたら?
 ありもしない気配に怯えながら、聡美は背後をふり返る。やはりそこには、傾斜地に並ぶ夕暮れの家々だけがひっそり佇んでいた。そうしている間にも、じりじりと陽は沈んでゆく。ふり返り、角を曲がる。角を曲がって、またふり返る。
 ようやく住宅地を抜けたところで、キィキィとペダルを漕ぐ音がした。
 飛び出しかけた心臓を押さえてふり向くと、時代錯誤な豆腐屋の自転車が、気の抜けたラッパを鳴らしながら聡美を追い抜いて行った。
 ほぉ、と震える息が大きく漏れた。
 乱れた鼓動を落ち着かせながら、ふたたび県道を目指す。
 きっと、父は帰っている。
 たとえ聡美を待っていなくても、そこには帰れる場所がある。
 結局、聡美にはそれしか頼るものがなかった。父との関係が明るみに出れば、父は職を失い、聡美も路頭に迷うことになる。施設に入ることになっても、そんなものは居場所がなくなるのとおなじだ。父も、聡美も、聡美たちを追い詰めた奴らも、みんなみんな消えてしまえばいいが、それだって現実には不可能だ。聡美さえ我慢していれば、それで丸く収まるのだ。だから、急いで帰ろう。父の作ったおでんをふたりで食べ、今夜も人形になって呪われた儀式をやりすごそう。
 ほら、もう歩道橋だって見えてきた。
 この階段を上りきって、県道を渡って向う側へ。
 足元はだいぶ暗くなったけれど、まだ陽は落ちきっていない。コの字型に折れた踊り場を抜ければ、団地までひと息だ。
 けれど――
 やはりそいつは、じぃっと見つめていた。
 歩道橋の階段の天辺から、踊り場の聡美を見下ろしていた。
 だらりと垂らした日本刀が、鈍色に残光を照り返す。全身の包帯は、膿とも脂ともつかないシミでどこと言わず薄汚れている。
「ひッ……」
 反射的に出かかった怪人の名は、喉の奥で押し殺した。
 夕日に染まってなお赤い目が、聡美の視線と絡み合う。顔中の包帯から覗く、白目も黒目もない血色の眸だ。聡美は思わず身を引いて、硬直したまま後退る。心臓がギシギシ痛み、左手で制服の胸元を握りしめる。
 その左手を追って、ぐるりと赤い視線が動いた。
 なぜ、と思う間もなく聡美は身を翻した。今きた階段をひと息に駆け降りると、県道に沿って走り出す。嫌だ、嫌だ、嫌だ。わたしばっかり、どうしてこんな目に……問いかけると、ひさびさの頭痛と一緒に母の声が返ってきた。だから言ったでしょう? いや、そうじゃない。これはカヨちゃんの声か……ふり払おうと夢中で走るうち、ほどなく進んだバス停で折よくバスが捉まった。行き先も確認せずに飛び乗った。
 ブザー。アナウンス。閉まる乗車ドア。
 息をきらせて顔をあげると、乗客の視線が揃って聡美に向けられていた。混雑というほどではなかったが、車内の座席はすべて埋まっていた。その無数の視線に囲まれて、聡美はどうにか安堵の息を漏らす。これだけの人目があれば、怪人も追ってはこれまい。そう確信しながら、乗客の間をぬってよろよろと最後尾まで進む。
 すると一段あがった後部座席の窓側から、
「だ、大丈夫かい。お嬢ちゃん……顔色わるいけど」
 と、白髪の男の声がかかった。
 困惑しながら席を譲る男の申し出は、遠慮せずに受けた。それを待っていたように、バスはゆっくりと夕暮れの町に向けて発車する。
 そっと肩越しにふり返った歩道橋には、すでに怪人の姿はなかった。
 窓にそえた左手の包帯が、なぜか緩んで解けかけていた。

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伝怪 07 

伝怪

 そしてその日から、父はあっち側に行ったきりになった。
 厳密に言えば微妙に異なるが、聡美にとってはおなじことだった。父は聡美をあの忌まわしい母とつねに認識し、〝頭の中の母〟とふたりの暮らしを始めたからだ。
 朝起きて、朝食の支度をする。
 ふたり分の弁当を詰めて、大学に出勤する。
 夕方には家に帰り、おでんを作って待っている。ふたりでおでんを食べ雑談をし、そのあとは夢中になって研究の話をする。……延々とくり返す一見変わらない毎日。けれど聡美の存在は、はじめからなかったようにそこから抜け落ちていた。聡美を母の名で呼ぶ父は毎夜のごとく求め、聡美の中で果てるようになった。
「じゃあ、いってくるよ。マサミ」
 ドア越しにかけられる声は、まるで呪いの文言だった。
 聡美はベッドの中で縮こまり、今朝も父のその声を聞く。もう学校も、体調不良を理由に何日も休んでいた。それでも、「お大事にね……」とだけ告げる電話口の担任が、聡美の絶望を余計に煽った。お前に手を差しのべるものなど、どこにもいないのだ。そう宣告されたようで、追い詰められた思考がますます深い闇に落ちてゆく。
 ――自分の居場所は、完全に消滅した。
 聡美がそれを思い知るのに、時間はいらなかった。明日こそは、明後日こそはと歯を食いしばってみても、父がこっち側へ戻る気配はなかった。父の中の小さな世界には、母しかいらないとでもいうように。
(うぅん、もしかするとお母さんでさえ……)
 考えるとまた涙があふれ、天井がぼやけて滲んだ。この最後の砦の四畳半ですら、もはや安全地帯ではなくなった。あのアルバムのころまで時間を巻き戻し、〝母と新しい家族を作ろう〟とする、壊れた父を待つ地獄の窯へと変わり果てたのだ。
 そう、新しい家族。
 おぞましい妄想に吐き気をもよおし、聡美はベッドから跳ね起きた。部屋を飛び出すとトイレに駆け込み、へたり込んで便器を抱える。用意された朝食も弁当も手をつけていない聡美の胃袋は、昨夜から未消化のおでんを吐き出した。
 ようやく、儀式の本当の意味が理解できた。
 聡美を母に見立てた父は、聡美と子供を作ろうとしている。
 欠けてしまった〝妻〟という記号を聡美で埋め、思い通りにならない過去を封印し、家庭を築くところからやり直そうとしている。
 結局、父が欲しているのは〝妻〟と〝子供〟という記号だけだった。
 それが聡美の母である必要はなく、聡美である必要もない。無条件に自分を認め、自分を擁護してくれる場所。それが父にとっての〝家庭〟であり、妻も子供もそれを構成するただのパーツにすぎないのだろう。
 今さら突きつけられた真実が、聡美のこころを打ちのめした。父が守っていたのは、聡美の居場所などではない。父が縋っていたのは、自分のためだけに存在する、空っぽでひとりよがりな城……その残り滓だったのだ。
 ――お願いだから、自分の妄想を押しつけるのはやめて……。
 不意に母の言葉が蘇り、また吐きそうになった。
 お母さん……お母さん、お母さん。
 思わず出かかった声は、左手を強く噛んで押し殺す。今さら母に救いを請うなど、許されるはずもない。では、誰に?
 惑えば惑うほど思考はもつれ、聡美はトイレに蹲ったまま途方に暮れる。
 あからさまに奇異な行動でもあれば、周囲も気づいたかもしれない。だが父の言動は聡美の件を除けば比較的まともだ。訊ねれば自分の名前も年齢も答えるし、勤務先も大学名まで正確に言う。職場の人づき合いが乏しかったことも災いし、大学でも父の異変が悟られた様子はなかった。もとより近所づき合いが断絶しているのだから、私生活はなおさらで、聡美以外に事実を知るものはいない。
 改めて現実を認識し、聡美の背筋に悪寒がはしった。軽いヒステリーを起こして、左手に立てた歯に力を籠める。
(誰でもいい、助けて――)
 切実にそう念じた時、ほらね、と母の声がした。動揺する聡美が弾かれたように顔を上げると、空け放したままのドアの先に人影が見えた。短い廊下の奥に佇むその影は、リビングから漏れる日差しでおぼろげに揺らぎ、母かどうか判然としない。
 けれど影法師は、はっきりと母の声で言う。
「あなたは、いつだってそう。……自分勝手に人を軽蔑して、困るとすぐに手のひらを返す。本当に、いい性格してるわよね」
 え、と言葉を詰まらせ、聡美は影に目を凝らす。
 影は嘲笑うように、ゆらゆらと揺れた。
「でもまあ、自業自得かしら。あなたが自分でまいた種だし」
「違う、わたしは……」
「なにもしてないって? あはは――」
 心底おかしそうに明滅すると、影は一歩分だけ聡美に近づいた。
 それが現実のものでないことくらいわかっていたが、聡美はふり払うことも目をそらすこともできなかった。
「なんでも誰かのせいにする、って、私のこと馬鹿にするけど……あなたのそれは、どこか違うの? なにもしないのは、なにかしたのとおなじなの。まさかとは思うけど、知らなかったって被害者面すれば、全部許されると思ってるわけじゃないわよね?」
「そ、それは……」
「あぁ、思ってるんだ。気持ちわるいわね、それ」
 呆れ果てたようにまた影は揺らぎ、聡美は耳を塞いで首をふる。嫌だ。なにも聞きたくない。なぜ幻覚にまで、自分が責められなくてはいけないのか? それでもそれを許さないというように、影の母はさらに一歩分近づいてくる。
「教えてあげましょうか? あなたが酷い目に合うのは、あなたが弱いから。弱さを言い訳にして、強くなろうとしないから」
 ゆらり、また一歩分。
「だから、このまま破滅するの。弱いあなたは、今度も晒しモノになる」
 影が喋るたび、聡美の視界が点滅する。
 視界が点滅するたび、影との距離が縮んでゆく。
「実の父親と関係をもった娘として、死ぬまで蔑まれつづけなさい。だって仕方ないわよね? 今までの噂と違って、これは事実だもの。あなたの弱さがまねいた、否定しようのない事実……でも、それが嫌なら」
 気がつくと、影は目の前に迫っていた。手を伸ばせば届くほどに。
 その位置まできて、はじめて影の全貌がわかる。だがそれは、予想に反して母のものではなかった。蹲った聡美の目線にある、節くれた膝。そこからつづく、筋張った腿。骨盤の形がはっきり出た腰の上には、肋骨の浮いた胸があった。男……それも、全身を血脂じみた包帯で巻きしめている。そしてその上にある顔が――
「任せてしまいなさい、彼に」
 掠れた母の声を合図に、すとんと聡美の鼻先に突き出された。
 包帯の隙間から覗くまっ赤な目が、じっと聡美を見据えてくる。聡美は条件反射で顎を引き、息を詰めて目を見開いた。
「ひ、ぃ……」
 いきおいで仰向けに倒れた聡美は、そのまま白目を剥いて昏倒した。薄れてゆく意識の中で、奇妙な歌声を聞いたような気がした。トン……トン……トンカラ……トン……トントン……トンカラトン……それは母の声のようでもあり、またカヨちゃんの声のようでもあり、誰の声でもないようにも思われた。

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伝怪 06 

伝怪

 半狂乱になった、見苦しい剥き出しの女……ああ、そうか。今度はあの時、母の不倫が発覚した、小学六年のころの記憶だ。
「そりゃ、たしかに最初は、そんな浮世ばなれしたところが素敵だと思った! 大学講師って肩書にだって、アカデミックな響きがあったわよ! なのに、実際はどう? 稼ぎは少ないし、出世だってしない! 研究研究なんて言って、休みになるたびフラフラどこかへいなくなる! 家だって、いつまでもこんな団地暮らしで――」
 父をなじり飛ばすその姿に、聡美は絶句した。
 取ってつけた不満。ありきたりなセリフ。言動のひとつひとつが自分本位すぎて、子供の聡美でも吐き気を覚えたほどだ。
「それでも、私は我慢したの! いつもニコニコ笑って、良妻賢母でいられるように一生懸命つくしたわ! それを、なに? たった一度の過ちが、そんなに許せない? 他の男の手垢がついたから? ほんのちょっと、穴の形が変わっただけじゃない!」
 髪をふり乱し、夢の中の母は叫びつづける。
「お願いだから、自分の妄想を押しつけるのはやめて! あなたが、家族に執着してるのは知ってる。世間に認められない焦りを、家庭って幻想で埋めようとしてることも気づいてる……けど、なんで私がつき合わなきゃいけないの? 女であることを無視されて、母を強要される苦痛が、あなたたちに理解できる?」
 そうわめいて迫ってきた母の口からは、腐った水槽の臭いがした。
 きっと腹の中に隠した本性が、そんな異臭を放つのだ……掴みどころのないまどろみの底で、薄ぼんやりと聡美は考える。
 誘惑に耐えられなかった、脆くて弱い母。
 それを全部なにかのせいにする、無責任で汚い母。
 どんなにつらくても、自分は母のようにはならない。自分は決して〝魔に刺されたりなんか〟はしない。そんなものは、ただの言い訳だ。自分を甘やかすことしかできない人間の、都合のいい世迷い事だ。でも……
 夢の奥のもっと深いところから、誰かがそっと訊ねてくる。
「……本当に?」
 カヨちゃん、これはカヨちゃんの声だ。
「あの女の血を引いてるクセに、よく言えるね」
「そ、それは……」
 冷やかに言い捨てるカヨちゃんに、全身の血が一気に引いた。だって、それこそ聡美の責任じゃない。不倫をしたのは聡美の母であって、聡美はなにもしていない。それにそれを言うなら、カヨちゃんこそあの父親の――
「ほら、もう人のせいにしてる」
「あ……」
 言葉を失う聡美の前に、憎しみを籠めたカヨちゃんの目が近づいてきた。
 キィキィと癇に障る金属音が、どこかから聞こえてくる。
「結局、さーちゃんの決意なんて、その程度だよ。エラそうなこと言っても、人に迷惑かけることしかできないんだ。あの女みたいに。……だったらもう、開き直っちゃえばいいじゃない。人間なんてみんな、被害妄想のカタマリなんだから」
 さあ、とカヨちゃんの手が伸びた。
 なぜかその手には、ボロボロの包帯が巻かれていた。
「だから、早く呼ぶの……あの名前を」
 嫌だ、それだけは絶対。聡美は懸命に耳を塞ぐ。その手のひらをすり抜ける声が、ギリギリと頭をしめつけてくる。
「どうせ、あの母親から産まれた子なんでしょ?」
「裏ではこっそり援助交際してるって、本当なのかしら?」
「やっぱり、血は争えないわよねぇ」
 嘘だ、そんなことしていない。もう限界だ、カヨちゃんの家みたいに引っ越そう? 新しい場所で、親子ふたりでやり直そう? けれどふり返った父の眸は、どこか遠いところに焦点を合わせたままだった。
「……なに言ってるんだ、聡美? もし、お父さんたちまでここからいなくなったら、帰ってくる時にお母さんが困るじゃないか」
 そうして父は、おろおろ泣き崩れた。
 母の名を呼びながら、駄々をこねる子供のように地べたを這いずりまわった。
「マサミ、マサミ……すまなかった、マサミ」
 聡美は耐えきれなくなり、ついに夢からも目をそらす。
 もがき、あがき、青い闇から現実の世界に浮上する。だがそこにも、やすらぎなど待っていなかった。もがいて掴んだのは、聡美に覆い被さっている父の髪。あがいて絡んだのは、聡美に割って入ろうとする父の足。目の前に、父の顔があった。
「ごめんな、〝マサミ〟」
 ――違う、それは母の名前だ。
 半覚醒の意識の中、聡美は息を飲む。しまった、父のスイッチが入っている。無駄だと知りながら、一応の抵抗を試みた。泣きじゃくる父は、お構いなしに聡美のスウェットをたくし上げる。すぐにブラはずらされ、胸があらわになった。まだ成長過程にあるその小ぶりな乳房に、父がむしゃぶりつく。
「マサミ……マサミ、マサミ」
 うわ言のようにくり返される名前に、自然と涙が滲んだ。
 いつどうやって、スイッチが入ったのかはわからない。もしかすると夕飯の声をかけにきた父の前で、聡美がなにか寝言を口走ったせいかもしれない。あるいは、やはり月経の血が放つ雌の臭いが……両腕で泣き顔を覆いながら考えるが、もう遅い。なんにせよ、今夜の父は〝あっち側〟に行ってしまった。
 あっち側の父は、聡美と母の区別がつかなくなる。
 その傾向が表面に現れたのは、聡美が中学に上がったばかりのころだった。
 今日のように不意の生理が訪れたその夜、聡美は汚したパジャマを洗うため風呂場へ向かった。すでに零時をまわっていて、家の中は静まり返っていた。
 寝ている父を起こさないよう、足音を忍ばせた。
 そんな闇の中に、パタリとなにかを捲る音がした。身を縮ませた聡美は、条件反射で音の元をたどった。厚紙同士が当たる、小さくて籠った音。聡美の部屋と隣接するリビングから、その音は聞こえていた。
「お、父さん……?」
 こわごわ声をかけてみたが、返事はなかった。
 代りにもう一度、パタリと音がした。
 意を決してリビングに足を進めると、床に座り込んだ父の背中が見えた。月明かりだけを頼りに、なにかを食い入るように見つめていた。
「……お父さん?」
 ふたたび声をかけても、反応はなかった。時間ごと止まったように微動だにしない父の背中に、聡美はそろそろと近づいた。肩越しに父の手元を覗き込むと、そこには床に広げた古いアルバムがあった。
 聡美の知らない、まだ年若い父と母が写真の中にいた。
 聡美はその時、自分が声を漏らしたかはもう覚えていない。覚えているのは、いきなり首だけで振り向いた父の口から出た言葉だけだ。
「どうした、マサミ。こんな時間に?」
 瞬間、心拍数が上がった。
 聡美を透かして母を見る父の目は、あきらかに正気をなくしていた。パニックになった聡美は自室に駆け戻り、朝まで布団を被って震えていた。投げ出してきた汚れたパジャマは、次の朝きちんと洗濯されていた。
 この儀式が始まったのは、それからすぐのことだった。
 はじめての時は、破瓜の痛みとショックでなにもできなかった。次の時は抗ったが、頭脳労働とはいえ父も男だ。女の、しかも子供の力で、止められるわけもなかった。回数が重なるたび、少しずつ行為はスムーズになった。性器が傷つくのを避けるため、身体が勝手に反応するということを、聡美はあとになって知った。
 これで、何度目になるだろう……。
 組み敷かれ全身をまさぐられるうち、聡美は諦めて抵抗をやめる。母の名前を呼びつづけながら、父は聡美のスウェットを剥ぎ取ってゆく。胸から腹、腹から下へと這ってゆく舌の感触に、身をこわばらせて耐えた。
 ほら、大丈夫。こうしていればあっという間だ。
 目をつむって、じっと我慢すればきっと。
 この前も、その前も、そうやってずっと凌いできた。不安に押しつぶされて決壊した父を、聡美は受け入れると決めたはずだ。だって、父は最後の家族だから。聡美の存在を許してくれる、唯一の人間だから。
 明日の朝になれば、いつもの父に戻ってくれる。それを信じて、侵入してくる父の熱を堪えた。内側を掻きまわされる執拗な痛みに、意識がまた遠のいてゆく。ベッドが軋む音に混じって、耳障りな金属音が響いてきた。錆びついた自転車のペダルを漕ぐような、強引で脅迫的な音だ。キィキィ、ぎぃぎぃ、キィキィ、ぎぎぎ……落ちて行った、今度は深い眠りの奈落で、輪光をまとって白刃が閃いた。

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