我と我が身と彼のものと。

常在辞世。渋枯れ好みの“詫びオタク”…なんとなく更新中。

伝怪 05 

伝怪

 鉄製の玄関ドアの前に立つと、やはり中には父の気配があった。ほんの少しだけ逡巡した聡美は、音を立てないよう注意してドアを開ける。さっきの幻聴も気にはなったが、今は父の状態を確かめるのが先決だ。
 上がり框の先にはダイニングの入口が見えていて、すでに忙しく夕食の支度をする音が聞こえていた。ゆっくりと靴を脱ぎ、鞄を胸に抱いて近づいてゆく。おそるおそるキッチンの様子を窺うと、ふり向いた父がにっこりと微笑んだ。
「ああ、おかえり〝聡美〟」
「た、ただいま……」
 ちゃんと自分の名前が呼ばれたことで、ほっとして息を落とす。
 ……よかった、今日の父は大丈夫だ。
 それが確認できただけで、ひとまず安心できた。そうなるとおかしなもので、あれだけしつこかった頭痛も、嘘のように鳴りをひそめていた。気分もいくらか軽くなり、包丁をふるう父の手元をそっと覗き込む。下処理された牛すじ。丸のままのちくわ。練り物もいろいろ。半月切りの大根はたぶん、ガス台に用意されている米のとぎ汁で下茹でするところだろう。予想通りの、幸せだったあのころの味。
「は、はは、今夜はおでんでいいかな?」
「うん、お父さんのおでん……大好きだから」
「そうか、そうだよな」
 バツがわるそうな父の笑顔には、曖昧な笑みを返しておく。
 なぜなら献立がおでんになるのは、〝今夜は〟でななく〝今夜も〟だったから。それでも不器用な手つきで母の味を再現しようとする父に、涙があふれかけた。気取られないよう踵を返すと、聡美は背中越しに小さく声をかける。
「……その、毎日ありがとう」
「いいから、早く着替えてきなさい」
 照れくさそうに手をふる父には、きっと今の言葉は届いていない。
 明日の夕方にはまたおでんを作り、聡美に困り笑いでこう尋ねるのだ。
 ――今夜は、おでんでいいかな?
 聡美はこの二年間、そんな毎日をすごしている。毎晩父の作ったおでんを食べ、まったくおなじ世間話をくり返す。もっともそれは、図書館で見つけた小説がとか、昔読んだ詩集がとか、あたり障りない話題に限られるのだが。
 父のこころは、ずっとあのころに留まっていた。だとしても〝こっちの父〟でさえあってくれるなら、聡美はそれで幸せだった。
 大学講師である父は、このためだけに自分の講義を午前に集中させてくれている。市の郊外にある総合大学の分舎も、都内にある文系大学の本校舎も、かけもちしているふたつの職場、そのどちらもをだ。
 もちろん理由は、ひとり娘である聡美の面倒をみるため。
 教員の娘である以上、それがどんな意味かは聡美だって知っている。教授や助教授への出世の道も、そのための研究や学生の信頼も、すべてを諦めたということだ。そこまでして、聡美の居場所を守ってくれている。
 専門にしている文化人類学というのが、どんな学問なのかまでは詳しくわからないけれど、かつては習慣にしていた休日のフィールドワークすら、今は家事や聡美の相手をするためにやめてしまっていた。
 ただ、一度トラウマのスイッチが入ってしまうと……。
 とりとめもなく思考を巡らせて、その先を聡美は放棄した。不吉な想像をして、もし今夜も現実になったらどうするというのか。
 自室に戻ると、蛍光灯のスイッチを入れる。
 チカチカと点灯した白い光が、つつましい四畳半を照らし出す。
 強引に押し込んだベッドに、勉強机がわりのパイプデスクがひとつ。縦長のスリムな本棚には、教科書や参考書のほかに、いつの間にか集まった文庫や文芸誌が並んでいる。友達と話を合わせる必要のない聡美は、漫画の類はほとんど読まない。
 およそ中学生らしくない部屋だが、ここは聡美にとって最後の安全地帯だった。この殺風景な空間に身を置くだけで、全身の緊張が緩んでゆく。
 鞄を下ろし部屋着に着替えると、どっと疲れが出てベッドに倒れ込んだ。ゴロゴロした違和感はしつこく下腹部にまとわりついたが、ナプキンをする余裕もない。もうなにも考えるのが嫌になって、天井のクロスに目を泳がせる。
 やがて聡美は、うつらうつら眠りに落ちた。
 うたた寝の浅い夢の中で、聡美は小学三年生の子供に還っていた。
「ふぅん、包帯巻きの怪人ねぇ」
 興味深げに言ったのは、壊れてしまう前の父だった。ちょっと不満げに唇を尖らせる聡美の隣には、おなじく幼女のカヨちゃんがいて、期待に目を輝かせている。これは〝例の都市伝説〟のことを話したあの日の記憶だ。
「見た目は別として、話のディテールは通り物に似てるな」
 読んでいた本から顔を上げ、父は目を細める。パラパラとめくって示したぶ厚い文庫本の一ページには、異様に長い杖を斜に構える襦袢姿の老爺と、乱れた着物の日本髪を結った女の人が浮世絵タッチで描かれていた。たしかこの本は父のコレクションで、妖怪研究で有名な漫画家が描いた妖怪図鑑だ。
「とおり、もの……?」
「妖怪の名前さ。そういう民話や怪談を集めるのも、研究の一環だって言ったろ? 斬られた人は、ってクダリは派生形と思えなくもない」
 けれど得意顔で語り始める父の記憶は、どういうわけかノイズ混じりで再生される。妖怪と怪人……同様に……起源が……人間の脆さ……肩代わり……それに、痩せぎすで包帯巻きの……これは父の描いた……絵……ざらついた映像が復活すると、ともかく――と本を閉じ、父が聡美たちに向き直る。
「聡美はそれが気に入らないわけだ」
「だって、あんまり馬鹿馬鹿しかったから」
 ぷっと頬を膨らませた聡美が微笑ましかったのか、父は笑いながらつづける。
「まあ、わかるけど。この町の歴史は、教えたことがあったね?」
「……うん」
「じゃあ、そこにヒントがあるかもしれない」
 大学講師らしい小気味のいいテンポで、父の解説は進んだ。
 昔、とても大きな戦争があったこと。世界中を巻き込んだその戦争のお陰で、日本中が異常な活気と狂気につつまれたこと。
 戦争が泥沼の状態になったころ、この一帯にはたくさんの工場ができたそうだ。軍用トラックや戦闘機の部品を量産する無数の工場には、全国から労働力として人が集まってきたという。労働力や資材の運搬のため、線路が引き込まれ駅ができる。工員とその家族の居住区ができ、寮棟がつぎつぎと建設される。
 もともと荒れ野や田畑ばかりだったこの土地は、そうして市になった。
「といっても、点在してるいくつもの村を、無理やり合併させたんだけどね。そういうことが、当時の日本では普通に行われてた」
「それで、それでどうなったの!」
 無邪気に催促するのは、身を乗り出したカヨちゃんだ。聡美は微妙にずれてゆく会話に痺れをきらしたが、それを見透かしたように父が核心をつく。
「だから、都市伝説なんかも根強いんだな」
「……え?」
 いきなり結論を提示され、聡美は仰天した。一足飛びでいきなり結論に飛ばれると、人間はとたんに引き込まれるものだ。気がつくと聡美も、カヨちゃんとおなじように身を乗り出して話に耳を傾けていた。
「だってそうだろ? 住民が増えれば、より多くの物が必要になる。食べ物だって、着る物だって、それに娯楽施設だって」
「うん……」
「そうなると、お店ができて映画館ができて、病院なんかもできる。工場で働く人たちだけじゃなく、その人たちを相手に商売をする人が全国から集まってくるんだ。……ここまでは、言ってることがわかったかな?」
「……えっと、どうにか」
「よし。じゃあ、ここからが本題だ」
 満足そうに頷いて、父は自慢げに人差し指を立てた。話に興が乗ってくると、いつもやってみせる得意のポーズだった。
「いろんな土地から人が集まれば、自然といろんな文化も集まってくる。さて、聡美はどうしてだと思う?」
「……文化っていうのは、人の営みそのものだから」
「そう、よく覚えてたね。特に市の中心であるこの町はターミナルの役割も果たしてたから、生まれも育ちも違う人があふれ返って、ごった煮のような文化ができた」
「…………」
「やがて戦争が終わって工廠が解体されると、工場跡に企業や大学が入って、さらにその色合いが濃くなってゆく。工員の寮棟は公団に生まれ変わって、素性が異なるもの同士の情報共有……っていうと大げさかな? でもまぁ、そういう習慣が必須になった。そこで重要になってくる同期ツールが、噂話。どこそこで特売がとか、あそこの病院は腕がいいとか、そういう有用なものからデマや流言飛語にいたるまでね。人間の潜在的な恐怖や欲求を寓話化した、都市伝説もそのひとつだ。そんな歴史から、この町には〝噂が根づきやすい土壌〟というのがあって――」
 夢中になって話しつづける父に、「あぁ、またか……」と聡美は苦笑いした。
 身ぶり手ぶりをまじえ持論を展開する父は、いつの間にか当初の目的を忘れている。娘の疑問に答えるどころか、小学生にはとうてい理解できないような、小難しい言いまわしまで飛び出している始末だ。
 横目で盗み見ると、カヨちゃんもポカーンと口を開けていた。
 でも、これだっていつものこと。真面目で研究熱心な父は、頭もよくて面倒見はいいけれど、ちょっとマイペースなところがある。軽く肘でこづかれて隣をふり向くと、カヨちゃんも首を竦めていた。ふたりで顔を見合わせて、クスクス笑い合う。親友だったあのころの、人懐っこくてほがらかなカヨちゃんの笑顔。
 と――
「あなたの、そういう身勝手なところがもう限界なの!」
 そんな狂った母の声で、急に場面は暗転する。

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伝怪 04 

伝怪

(どこが、オモチャの町なものか)
 根こそぎの歯車が狂ったこの二年半を思い返し、聡美はきつく唇を噛みしめる。
 結局そんなものは、ただの幻想でしかなかった。どんなにうわべだけ整えてみても、町の本質も人間の本質も変わらない。ひと皮剥けば、ドロドロの自己愛と保身の塊でしかないことを、今の聡美なら知っている。
 その証拠にあれだけ優しかった母は、聡美が小六の時に不倫をした。
 相手はよりにもよって、カヨちゃんの父親だった。
「ごめんなさい、魔が刺しただけなの」
 母はさめざめと泣きながら、狼狽する父に足に縋りついた。泣き落としが通用しないとわかると、今度は豹変して父と聡美をなじり飛ばした。女として見られないつらさが、母としか扱われない切なさが、あなたたちにわかるのか――と。
 髪を振り乱し唾を飛ばしてわめくその姿は、ひたすら気持ちがわるかった。
 そこにはもう、天然ぎみのほがらかな母の顔はなく、甲斐甲斐しく夫の世話をやく妻の顔もなかった。あったのは、どこまでも自分だけを主張する女の顔。魔物に憑かれたように醜く歪んだ、無様で剥き出しな人間の顔だった。
(この町にしたって、そうだ……)
 身勝手な母が聡美と父を捨てて消えたころ、事件に飢えた噂好きの住民たちも嬉々として本性をあらわにした。
 団地組だの、金持ち組だの、もともと些末な連帯意識でより合っている土地柄だ。「こいつは叩いて構わないよ」と言われれば、気さくで面倒見のいい隣人の仮面をほうり捨てるのに、数瞬の躊躇いさえ見せはしなかった。
 ましてこれは、都市伝説の怪人みたいな戯言ではない。
 自分も他人事では――と大手をふって糾弾できる、身近に起こったエンターテインメントなのだ。下世話なゴシップは、またたく間に広まった。マンモス団地一帯はもちろんのこと、小学校の保護者たちにいたるまで。
「いっつも物欲しそうな顔して、前から気にはなってたのよ」
「それにしたって、子供の同級生の親と……ねぇ?」
「しかも、おなじ団地に住んでたんでしょう?」
 その時すでに、カヨちゃんは母親に連れられて町から引っ越していた。あの父親がどうなったかは知らないけれど、去り際のカヨちゃんは無言で聡美を睨みつけた。ありったけの呪いを籠めたあのまなざしを、聡美は今でも忘れない。そうして本来の標的を見失った風評の矛先は、しだいに残された父と聡美に向かっていった。
 妻に浮気をさせた、甲斐性のない夫。
 不貞な母から産まれた、インバイの血を引く娘。
 大っぴらにこそ伝えないだろうが、コソコソささやく親の会話を子供たちだって聞いている。〝さーちゃん〟だったクラスでの呼び名は、すぐに〝市ノ瀬さん〟になり、間を置かず話しかけてくる級友自体いなくなった。さすがに中学に上がれば騒ぎも風化したけれど、一度貼られたレッテルは簡単には剥がれなかった。中一の終わりには援助交際の疑惑まで流されたし、今でもサカリのついた一部の劣等生からあけすけな視線を向けられることもある。これが聡美を取りまく現状だ。もっとも、そんな猿のような男子たちにとってすら、〝やっかいな腫れモノ〟との接触は憚られるものらしいのだが。
「しょせん、現実なんて……」
 その程度だと呟きかけ、聡美はこめかみに手をそえる。
 つまらないことを考えたせいか、ふたたび〝あの頭痛〟がぶり返していた。
 本当に、どうしてしまったのだろう? 今日の自分は、やっぱりどこかが変だ。こんな境遇なんて、とっくの昔に受け入れているはずなのに。父がそう決めた以上、この町でやっていくと決めていたはずなのに。
(だって、わたしは――)
 なにしろ聡美は、ただの中学生なのだから。
 大人を黙らせる権力も、子供を味方につける人望も、力ずくで従わせる強さもありはしないのだ。みんな消してしまいたいと思うこともあるけれど、そんなこともできるわけがない。自分ではない〝他のなにか〟にでもなれるなら話は別だろうが。
 だから、早く家に帰ろう。
 父の作った夕飯を食べ、嫌なことはすべて忘れてしまおう。
 朦朧とする意識の中、ジンジンと渋る頭をふって歩道橋に目を凝らす。コの字型に上る階段の片隅には、すでにぼんやりと闇が落ちていた。
 このまま県道を向こう側に渡りきり、私道とまじわる路地を左手へ。団地の敷地内に入ってさえしまえば、公園の脇をすり抜けて最初にあるのが八号棟だ。人目を避けて三階までたどり着けば、それでようやく息がつける。
 聡美を問題児扱いする教師の目だって、晒しモノにする女子の目だって、いやらしい男子の目だって、そこまでは届かない。
 そう決心して踏み出した瞬間、ズクリと子宮が痛んだ。聡美は眉をよせ、下腹を押さえる。制服のスカートの奥から、熟した粘液と体臭の混じった、腐った香水のような臭いが立ち昇った。いつもよりだいぶ早いが、それは生理の予兆だった。聡美が女であることの証。母とおなじ、雌である烙印。
 なるほど、と聡美は納得する。鬱陶しい頭痛も、安定しない情緒も、これが原因だったのかもしれない。だとすれば、なおさら急がなければ。出血が始まって、制服を汚しては面倒だ。けれどその思いとは裏腹に、聡美の足取りはいっそう鈍くなる。
 たとえ家に帰っても、今日も父が〝まとも〟とは限らない。
 母に捨てられてから、ゆるゆると崩壊してゆく父……誰よりも家族を愛し、またそれを拠りどころにしてきた父……そんな父が、この排卵の臭いを嗅ぎ取ったらどうなるのだろう? もしかすると今夜も、あの現実逃避の儀式が待っているかもしれない。急に込み上げる不安が、階段を踏みしめる足を鉛のように重くした。すると記憶の奥底から、得体のしれない掠れた声がささやいてくる。
「なぁ……トンカラトン、って言ってみな?」
 ギクリとした聡美が我に返るのと、不意に木枯らしが吹きつけたのは、ほとんど同時のタイミングだった。

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伝怪 03 

伝怪

 ホームルームが終わると、生徒たちは好き勝手に各々の場所へと散ってゆく。「カッタりぃ、カッタりぃ」を連呼しながら部活へ向かうもの。「どこそこに気になる店を見つけたから」と寄り道のグループを集っているもの。
 聡美はそそくさと鞄を抱え、喧騒から逃げるように教室をあとにする。
 もうすっかり馴染んでしまった、これも日常の光景だ。
 無秩序に廊下を行きかうジャージや制服にまぎれ、階段を下って昇降口へ。そのまま校門を出て急な坂道を下りきれば、校舎のある高台から迷路のような住宅街に入る。あとは見通しのわるい路地の角をひとつふたつ折れれば、もう聡美が住む二十数棟建てのマンモス団地までは目と鼻の先だ。
 急がなければ、きっと父は今日も早く帰ってくる。
 そして聡美のために、夕飯の支度をするだろう。それを必ずふたりで囲むのが、母が家を出てからの父と聡美の約束になっていた。だから聡美も、それまでには戻らなくてはならない。でないと、また家族が壊れてしまう。
(だけど……)
 この日の聡美の足は、県道をまたぐ歩道橋を渡るのを躊躇っていた。
 学校で妙なことを思い出したせいだろうか? 暮れかけた冬の陽に鈍く紅く染まる、見慣れた白壁の群れを対岸に眺めていると、脳内にすぎた日の出来事がつらつらと蘇ってくる。家族も友達も揃っていた、そう思い込んでいた、あの日々のことが。
 ――公団を軸にした団地の町。
 聡美がこの町に越してきたのは、小学校二年の春休み。例の怪人の噂を聞くはめになった、三年進級をひかえた時期のことだった。
 ちょうど東京との県境にあたるこの地域は、都心にもほど近く。そのわりに低い賃貸相場のため、ベットタウンとして人気が高い。郊外まで足を伸ばせば、まだまだ余剰に土地も残っているらしく、大学の新設学部や企業施設の誘致も多かった。その相乗効果もあってか人口も右肩上がりに増えていて、近年改めて注目を集めているという。
 それが聡美の両親の目を引いたのだ。
 父の仕事の都合、というのが引っ越しの主な理由ではあったが、それまで暮らしていた六畳と四畳半の都内のアパートでは、聡美の成長にともなって手狭になってきたからというのもある。もちろん父と母と聡美、三人揃っての移住だった。
「ごらん、聡美」
 道中の車内。父に言われて見上げた場景は、今でも鮮明に思い出せる。
 県道に覆い被さるように迫ってくる、統一デザインの棟の波。駅前を起点とするドミノのように規則正しい配列は、そのまま一区画ほどつづき、さらに棟のデザインだけを変えて、同様の景色が何ブロックも窓の外を流れゆく。
「わぁ――」
 ある種圧倒的なその景観に、聡美は思わず声を漏らしたものだった。
 都会育ちの聡美にしてみれば、もっと高層のビルも近代建築も慣れっこだったが、いかにも〝町ごと設計した〟というこの町の風情はオモチャやゲームの世界が現実に出現したようでもあり、幼い目には新鮮な印象で映ったから。
「ここはね、団地から生まれた町なんだ」
「団地から、町が?」
 運転席から得意げに解説する父に、オウム返しすると、
「今日から住むお家も、その内のひとつなの」
 そう助手席の母が便乗する。
「きっと、お友達もたくさんできちゃうわよ? 楽しみねぇ」
 どこか惚けた笑顔を浮かべる母に、聡美も無邪気にはしゃいでみせた。少し型の遅れたファミリーワゴンの車内は、その時たしかに幸福があふれていたと思う。実際、これからこの〝オモチャの町〟で送る新生活に聡美も胸をときめかせていたし、父と母もそれを少しも疑っていなかったろう。
 そんな期待を裏づけるように、母の予言もすぐに的中する。
 カヨちゃんに出会ったのは、引っ越しの翌日だった。荷解きを始めた両親の邪魔をしないよう、聡美が敷地内の公園で遊んでいた時のことだ。
「……あなた、新しく越してきたお家の子?」
「うん……えっと、そこの棟の三階に」
「そっかそっか、どうりで見かけない子だな――って、思ったんだよね」
 かがみ込んでシロツメクサを摘んでいた聡美は、いきなり現れた女の子を茫然と見上げた。そんな聡美の様子もお構いなく、女の子はポンポンと質問を投げつけてきた。それがカヨちゃんとの最初の会話だった。
 矢つぎ早に突きつけられる質問に、聡美はしどろもどろに答えた。
 父は大学講師で、春からかけもつ職場が増えたこと。前のアパートは、東京の下町にあったこと。専業主婦の母は優しいが天然ぎみで、驚くほど世間知らずなこと。そのひとつひとつを、カヨちゃんは興味深げに聞いていた。人懐っこそうな目を見開き、うんうんと都度に大きく頷きながら。
 その日から自然と、聡美はカヨちゃんと行動を共にするようになった。
 聡美の家は、八号棟の三〇二。カヨちゃんの家は上の階の四〇一。おなじ団地に住むおない年の子供な以上、当然、聡美もカヨちゃんとおなじ小学校に転入した。さらに偶然はつづいて、運よくクラスもおなじになった。
 カヨちゃんは好奇心旺盛な物怖じしない子で、どちらかというと引っ込み思案だった当時の聡美とも不思議とウマが合った。ふたりがお互いを親友と呼ぶようになるまで、たいして時間もかからなかった。
 それからの四年間は、本当にめまぐるしくて充実した毎日だった。
 運動会には、母がお弁当を作って応援にきてくれた。授業参観は、仕事の都合をつけた父が照れくさそうに見学してくれた。
 週末には、住民総出で団地の清掃をすることもあった。
 聡美もカヨちゃんと一緒に、せっせとゴミ拾いをしたものだ。そんな時、大人たちは決まって〝金持ち組〟の噂話をした。「えらそうにしてても、本物の金持ちは駅まわりの旧家だけさ」「新興住宅の連中は家を買った分、金はないよ」「実際は〝団地組〟の方が積み立てしてるから、お金を持ってるの」――。
 団地に住む団地組と、持ち家に住む金持ち組。地方特有のローカルルールで張り合ってはいたけれど、そんな雑多な空気も含めて聡美はこの町が気に入っていた。むしろ小さなコミュニティで結束する風潮に、奇妙な居心地のよさすら覚えていた。
 聡美が小五の時には、母もパートに出ることになった。カヨちゃんの父親がフロアマネージャーを任されていた、駅前スーパーの食鮮コーナーでだ。
 母はパートから戻ると、いつもウキウキと夕飯の支度をした。
 その後姿を眺めながら、聡美はキッチンのテーブルで宿題や予習をした。
 ほっとする匂いが鍋から漂ってくるころになると、計ったように父が帰ってくる。聡美はリビングに移動して、困り笑いの父に勉強の助っ人を頼む。そんな様子をにこにこ眺めながら、「もうご飯ですよ」と母が声をかける。そして三人揃って夕餉の食卓を囲み、一日の報告をするのが聡美たち家族の習慣だった。今日のように寒い冬の日のメニューは、父の好物のおでんが多かった。
 取り立てて恵まれていたわけではなかったけれど、まるでホームドラマに出てくるようなあたたかい家庭がそこにはあった。そんな時には、改めて思ったものだ。「わたしはこのオモチャの町が大好きだ――」、と。でも……

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伝怪 02 

伝怪

       ―― ・ ――

 八号棟前の公園に、トンカラトンが出た。
 その噂をはじめて聞いたのは、たしか六年前。聡美が小学三年生だったころだ。
 中学生になった今はもちろんのこと、当時の聡美にとってもそれは呆れ返るくらい幼稚なお話で、おなじ棟に住むカヨちゃんと苦笑いしたのを覚えている。なぜなら、トンカラトンは包帯で全身をグルグル巻きにした怪人で、
「いきなり自転車できて、〝トンカラトンって言え〟って脅すんだ」
「言わないと、持ってる日本刀で斬られちゃうんだって……」
 という、子供だましにもならない都市伝説だったから。
 おまけに、聞かれる前に勝手に〝トンカラトン〟と答えても、やっぱり敵とみなされて斬られてしまうらしい。だから決して手順を間違えてはいけない。左手に包帯を巻いておけば、仲間だと勘違いして見逃してもらえる。
 もうここまでくると、整合性もなにもない。単なるインネンだ。
「トン、トン、トンカラトン」
 ――トン、トン、トンカラトン……。
 奇妙な拍子でくり返す男子たちのその歌を、聡美はため息まじりに聞いていた。ガニマタで踊りながら歌うそれは、件の怪人が口ずさんでいるものだというが、だからなんだというのだろう? 今どき、都市伝説なんて流行らない。「アニメのTシャツを着た不審者がウロついている」とでも言われた方が、よっぽど怖いくらいだ。
 ただ、話のオチにつく一文だけは不思議と気になった。
 ……トンカラトンに斬られた人は、トンカラトンとなってさまよいつづける。
 死ぬことすら許されず、団地の片隅で増殖する異形のなにか――おぼろげにその姿を幻視した一瞬だけ、首筋をそら寒い感触が撫でつけていったものだった。
(でも、なんで今さら)
 こんな昔のことを思い出すのだろう。取るに足らない、子供時代のわるふざけを。
 考えれば考えるほど、泥を詰めたように頭がノロノロまわり、堪らず聡美は硬くまぶたを閉じた。どこかへ引き込まれるような不快な感覚。重く深く沈み込む思考を必死に堪えていると、甲高い女教師の声で現実世界に引きずり戻される。
「市ノ瀬さん……市ノ瀬聡美さん?」
「……あ、はい」
 慌てて顔を上げると、教壇から担任の藤崎先生がじっとこちらを見つめていた。
「もしかして、身体の具合でもわるいの?」
「……いえ、そんなことは」
「そう。だったら、いいんだけど」
 さらになにか言いかけて、先生はすぐに口を閉じる。
 もちろん聡美の言葉を真に受けたわけではないだろうが、たとえ教師といえども、いわくつきの生徒とは必要以上に関わりたくないのだ。一様に聡美を盗み見た生徒たちも、すでに興味をなくして手元のスマートフォンに目を落としているか、これ見よがしに眉をよせながら、ヒソヒソとなにかささやきあっている。
「えぇと、どこまで伝達したかしら――」
 そうして教室は、なにごともなかったような先生の声でざわめきを取り戻し、いつものホームルームの風景へと返っていった。身を縮めてその様子を確認した聡美は、小さく安堵の息を漏らし、鈍い痛みを増すこめかみに手をあてる。
(……そうだ、これでいい)
 どのみち、ここに聡美の居場所はない。形だけ与えられた廊下側・最後尾の席は、〝かわいそうな被害者〟を保護する安全地帯ではなく、〝子供に見せたくない汚れモノ〟を隔離するために用意された、60センチ×40センチの流刑地なのだから。
 とにかく目立たないように。
 それだけに集中して、ふたたび目を閉じる。穢れた血を受けついだ不浄の子。インバイから産まれたあさましい娘。大丈夫、大丈夫。こうして嵐がすぎるのを待っていれば、そんな陰口だっていつかは聞こえなくなってくる。
(きっと、あんなことさえなかったら)
 時折そう考えることもあるが、それだって〝今さら〟に違いない。
 聡美は息を殺し、じっとその時がくるのを待った。やがてじょじょに頭の芯が痺れてゆき、きつく結んだまぶたの裏側にまた現世が遠のいてゆく。たんたんと職務をこなす事務的な先生の声も。うわべの共感に余念のない級友の会話も。聡美を置き去りにした母の背中も。日ごと壊れてゆく父の無残な姿も。
 全部全部、ねっとりと粘りつく暗闇の彼方へ。そしてその向こうの深淵から、
 血濡れた包帯に塗れた腕が、ゆっくりと聡美に手まねきをした。

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伝怪 01 

伝怪

 じゃあ話の前に、その現象に名前でもつけときましょうかねぇ、旦那。
 いえいえ。この手の噂話ってなぁどうも、酒の肴にするには、いちいち呼び方が長ったらしくていけませんや。そうでさぁね、都市伝説の怪人ってくらいですから、
 伝怪……なんてのはどうでしょう。
 ええ、口裂け女だ人面犬だって、アレですよアレ。
 なら妖怪でいいだろうって? ところが、そうもいきやせん。なんでも偉い先生方――民俗学ってんでしょうかね。ほら、あの民話だなんだを集めてる先生らに言わせると、三代以上語り継がれたモン以外は、妖怪って呼んじゃいけねぇんだそうですよ。三代前っても〝人間の〟じゃありゃあせん、〝時代の〟って意味だ。ようするに、旦那の爺さんのそのまた爺さんくらいの連中がみんな死んだんで……って話ですから、ざっと三百年だの四百年をかけなきゃ妖怪の勘定には入れてもらえない。
 都市伝説に怪人ってのが出まわり始めたのが、昭和十年代の赤マントたらいうヤツからってんですから、コイツらぁまだまだ……。
 はい? おでん屋のおやじのくせに、妙なことにくわしいって?
 あはは、たしかに。けどこんなトコで屋台なんぞ引いてますってぇと、いろんなお客さんがくるモンです。こないだも、どっかの博物館の学芸員って方がみえまして。タネをあかすとその受け売りなんでさぁ、へえ。
 ……とまぁ、そんなワケで、妖怪じゃなくって伝怪。
 おや、気に入っていただけましたかい? そりゃあよかった。んじゃ、こっから先はこの呼び方で通させていただきまさぁ。へへ、伝怪か……我ながら、なかなか乙な名前をつけたもんだ。ああ、そんな手前贔屓はいいから話のつづきを。
 そうでした、そうでした。
 まあ、さっき言ったみたいにね。伝怪ってなこりゃ、単なる噂話です。といっても、それで終わっちゃあ、文字通りお話にならねぇ。
 この話がおっかねぇのは、きっちり死人が出ちまってるところでしてね。旦那だって新聞くらい読んでるはずだ……うん? ニュースならスマホで? さいですかい、近ごらぁめっきり便利な世の中になっちまった。
 ってことなら、そのスマホってやつでも構いませんや。
 ええっと、ありゃ……二、三週間前だったかな。ほら、あすこに見えてる団地で、中学生の女の子がお父つぁんをヤッちまった事件があったでしょ。そうそう、カッターナイフとかって文房具で、首のここんトコをこう……サクッ! とね。
 アタシも人づてに聞いたんだが、そりゃあ現場は酷いモンだったらしいですよ。
 切り口から噴き出した血が、ぶわぁっとキッチン一面に――ええ、お父つぁんの方は夕飯の支度中だったみたいでして。父子家庭、ってんですか。親ひとり子ひとりの事情なんで、そう決まってたらしいですが、なんとこの日の献立がおでんだった。そこに、そん時の血がまともに入っちまったてぇから堪らない。
 もう鍋ン中は、豚の血を煮込んだシチューみたいにどす黒い有様で。
 部屋の外まで漏れてきた、鼻のヒン曲がりそうな生臭さに、駆けつけた警官も吐き気を堪えんのがやっとだったそうです。
 で、当の女の子は緊急確保って寸法ですが、この状況がまた尋常じゃなかった。
 ……咥えてたってんですよ、ちくわを。
 それもお父つぁんの血で真っ黒に煮込まれて、ぶくぶくに膨れ上がったヤツをまるまる一本。ちょうどほら、今の旦那みたいにしてねぇ。
 おっと、こりゃスンマセン。食欲がなくなっちまいましたかい?
 まま、そんな顔せずに。ね? 今日みたいに冷え込む夜にゃあ、やっぱりコイツが一番でさ……そんで、なんだったかな?
 ――あぁ、そうだそうだ。女の子、女の子。
 でもって、そんな具合ですから、警官もおそるおそる声をかけた。血だまりン中でぼーっとお父つぁんの死骸を見下ろしてる女の子に、堪りかねて胃の中身を盛大にブチまけたあとにねぇ。そしたら、こう答えたそうですよ。
 自分が殺した。〝トンカラトン〟になったから、ってね。
 言ってることがさっぱりわからねぇ?
 でしょうなぁ、でもここがこの話のキモでして。トンカラトンってのは、伝怪の名前です。知る人ぞっていやぁ聞こえはいいが、ちっとばかしマイナーな、ね。きっと行き会って斬られちまったんですなぁ……女の子は、その薄っ気味わるい現象に。

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