我と我が身と彼のものと。

常在辞世。渋枯れ好みの“詫びオタク”…なんとなく更新中。

伝怪 09 

伝怪

 やがてバスは市街地を経由し、郊外の新興住宅地を目指してゆく。
 県道をそれ、私鉄の線路を潜るアンダーパスを通過するころには、町はすっかり宵闇の青につつまれていた。
 帰宅時間も近づいたのか、バス停のたびに乗客も増えてゆく。
 聡美はただぼんやりと、それを眺めていた。
(大丈夫、大丈夫――)
 ここにはもう怪人はいない。それに冷静になってみれば、あれはただの幻覚だ。どんなにはっきり見えても、実際に襲ってくるはずはない。だから、家に帰ろう。早くバスを降りて、遅れを取り戻そう。でないと、また父が取り乱す。今度こそ、帰る場所がなくなってしまう。それはわかっていても、頭痛で鈍る頭が行動に移すのを拒絶した。
 たまに流れる車内アナウンスも頭に入ってこなかったが、バスの終点ならおおよそ見当はついた。国立病院の前を通るこのルートなら、国道沿いの県営公園を境に、バイパスに入るか父の勤務するキャンパスに着くかのどちらかだ。
 降りるなら、県営公園の前。
 公園といっても、かなり敷地は広い。テニスコートもあれば、野外ステージもある。市役所沿いの二区画を使用した、県外にも名の知れた公園だ。敷地内には市立図書館もあって、聡美も休日にはよく利用している。
 とにかく、早く引き返さなければ。そうは思うが、一向に気力がわいてこない。
(わたしは、なにをしてるんだろう……)
 聡美は自分の反応に戸惑いを覚えつつ、窓の外に視線を投げる。すでに渋滞の始まった対向車線は、テールランプのまっ赤な連なりが駅までつづいていた。仮に今すぐ折り返しのバスを捉まえても、とても夕食には間に合わない。行き詰ってバスのシートに背をゆだねると、当たり前のように不吉な疑念が首をもたげてきた。やっぱりわたしの頭は、おかしくなってしまったのだろうか?
(違う、ちょっと疲れてるだけだ。きっとそうだ)
 必死に否定してみるが、もつれた思考は堂々巡りするだけだった。
 じゃあ、この頭痛は?
 さっきの気味わるい怪人は?
 どちらにしろ、幻覚から逃げ出す時点でどうかしている。そんな気もして、そら寒くなって肩を抱いた。そもそも、こんな都市伝説がなぜ怖いのか? 子供だましのおふざけじゃないか? 考えるほど頭痛は酷くなり、脳裏にノイズのような言葉が蘇る。
 ……人間は、弱くて脆い……こころのバランスが……そんな時の……緊急回避……昔から……妖怪……都市伝説……通り物……。
 ――通り物?
 たしか妖怪の名前だ。ということは、これは父の声。
 なにか記憶に引っかかっている。引っかかってはいるが、どうしても思い出せない。思い出さなくてはいけない気もするし、決して思い出してはいけない気もする。もどかしさから逃れるようにふたたび窓の外へ視線をそらすと、ふと窓ガラスに映った自分の姿に気づいてぞっとした。憔悴して青褪めた顔。焦点のない虚ろな眸。その表情は、我ながらこの世の住人のものとは思えなかった。
 まるで幽霊か、それとも……
 ろくでもない妄執に囚われかけ、慌てて聡美は首をふる。
(あれは幻覚、幻覚なんだ。だから――)
 ……早く呼ぶの、あの名前を。
 頭痛の痺れにまぎれて、カヨちゃんの声がした。どうしてカヨちゃんは、そんなことを言うのだろう。怪人の名を呼べば、救われるとでもいうのか。それより頭が痛い。ならばいっそのこと……そこまで思い詰めた時、ポーンとチャイムが鳴った。アナウンスされたのは、ルートが分岐する公園前のバス停の名前だった。
(……そうだ、ここで降りなくちゃ)
 とっさに聡美は、降車ボタンを押した。バスはしばらく走って、冬枯れたケヤキが並ぶ歩道に横づけで停車した。
 やっとのことで重い体を引き上げると、乗客を掻きわけて降車口へ向かう。ふらつく足でステップを降りた聡美の頬を、冷たい風がひと撫でした。バスを降りたのは、聡美ひとりきりだった。それと引き換えに、またバスはぞろぞろと行列を呑みこんでゆく。
 ハザードのオレンジに照らされた顔は、みんな疲れていた。
 仄暗い並木道は、それで不意に人気が絶えた。
 そしてブザーと共にバスが走り去ると、聡美はとうとう悲鳴を上げる。ようやく灯り始めた街灯の下を、わき目もふらずに駆け出していた。なぜなら、渋滞を挟んだ通りの向こう側――バスの影から現れた、折り返しのバス停の頼りない電飾の隣に、無言で聡美を見つめる怪人の姿があったからだ。

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伝怪 08 

伝怪

 聡美はそれから、ひとりで家にいられなくなった。家の中にひとりでいると、どこから母の影……いや、あの怪人に囚われるか、わからなくなったからだ。
 もちろんそれは、聡美が生み出した幻覚なのだろう。
 けれど、玄関の隅にクローゼットの陰。家の中にできたほんのわずかな闇の隙間からでも、いつも男は聡美を見つめていた。たとえば風呂で髪を洗っている時、夜眠ろうと目をつむった時、閉じたまぶたの裏の些細な闇からも、緋色に充血した目は聡美を捕まえようとする。そんな妄想が、聡美の頭には住みついてしまった。
 本当に馬鹿馬鹿しいことだと、自分でも思う。
 ただ、それが無性に怖かった。
 都市伝説の怪人など、現実には存在しない。そのくらい承知していても、どうしても不安が消せなかった。捕まって斬られれば、自分が自分ではなくなる。まじめにそう信じ始めている自分の頭が、なおさらに恐ろしくなっていた。
(だから……)
 また聡美は、父を頼った。
 ひとりでさえいなければ、怪人はそれ以上近づいてこない。
 父を恐れて母に助けを請い、今度は母が怖くて父に縋る。そんな自分が惨めで汚らわししかったが、突き上げた衝動は抑えようがなかった。
 はじめて幻覚が見えたあの日、聡美は父が帰るまでトイレで気を失っていた。揺り起こされた聡美は悲鳴を上げ取り乱し、父の首に両腕で縋りついた。その視線の先――廊下の端にできた闇から、まだ怪人はじぃっと聡美を見据えていた。その恐怖から逃れたい一心で、ついに聡美は自分から父を求めた。
 わけもわからず、その場で父とまぐわった。
 トイレから半身を投げ出し、父の上でつたなく腰をふった。
 行為が終わると、いつの間にか怪人は消えていた。放心状態の聡美を宥めると、父は噛み痕から血が滲んだ聡美の左手を治療してくれた。左手に包帯を巻かれながら、聡美は必死に母と怪人のことを話した。要領を得ない聡美の説明に困惑しつつも、父は泣きじゃくる聡美を抱きしめて言った。
「大丈夫……マサミのことは、ちゃんと守るから」
 母の名で呼ばれた不快感より、幻覚をふり払えたことで安堵した。
 そうして聡美も、被害者から加害者になった。
 加害者になった聡美は、もう父を責めることはできなかった。一度でも自分から求めてしまった事実が、うしろめたさになって聡美にのしかかっていた。あれほど嫌だった父との姦通も、今では聡美自身の罪となっていた。
 少なくとも、聡美の中では。
(それもやっぱり……)
 自分が弱いせいだからなのかと、聡美は自身に問いかける。
 教材のテキスト音声のような教師の声は、機械的に耳を滑っていた。これは数学の授業だったろうか、それとも化学の授業だったろうか。
 あれから数日。聡美は仕方なく、学校に出るようになっていた。父が帰るまでの空白の時間、どうにか人目のある場所で凌がなくてはならない。たとえ〝いないモノ〟扱いだったとしても、ここならその心配もいらないだろう。思案はしてみたが、経験値の低い聡美にはそれしか思いつかなった。
(……でないと、またあの怪人が)
 ――任せてしまいなさい、彼に……。
 まとまらない頭の中に、母の声が混じりさらに迷走する。自分はこれからどうすればいい? 担任に打ち明けて、懺悔でもするか? あるいは交番に駆け込み、父の犯されたと泣きわめくか? 考えるほど混乱は増し、思考が霧に埋もれてゆく。焦れて左手を噛みかけ、包帯に阻まれ気を取り直す。薄汚れた包帯の下で、傷はじくじく疼いた。無為な時間はたんたんとすぎ、答えは出ないまま午前の授業が終了する。
 給食の時間になると、配膳台が運び込まれ慌しく机の移動が始まった。
 申しわけ程度に班の横面だが、聡美も周りにならって机を合わせた。楽しげに響いてくるざわめきも、今だけはこころ強い。
 きのこご飯に、肉じゃが。ししゃも焼き、のりあえ、瓶の牛乳……粘土の味しかしないそれらのメニューを、聡美は目を伏せたまま黙々と口に運ぶ。班から無言の圧力はかかっていたが、それも気にしている余裕はなかった。あの赤い視線に怯えながらひとりで父の弁当を食べるより、この方がはるかにマシだった。ただ。
 父との爛れた生活が放つ、饐えた臭いを嗅ぎ取られてはいないか。それだけが気になって、聡美は闇雲に粘土の給食を詰め込んだ。
 授業がすべて終わると、もう陽は暮れかけていた。
 手元の携帯で確認すると、サブディスプレイに表示された時刻は四時少し前。ほんの数日で、日中がどんどん短くなる。怯えるだけの生活は、おなじ速度で聡美の精神も化膿させた。黄昏時。たそがれどき。……その由来が〝たそかれ〟だと教えてくれたのは、父だったろうか。高台から赤く染まった町を見渡し、ぼぅっと考える。
「たそかれの意味は〝誰そ彼〟。江戸時代は街灯もネオンもなかったから、この時間帯になるとすれ違うひとの顔も見えなかったんだな。それで、誰そ彼……ただし、声をかけてくるのが人間とは限らない。だから――」
 ああ、そうだ。たしかそんな呼び方も教えてくれた。
 ――逢魔時。
 夕焼けは、禍時を連れてくる。
 ならば聡美にとっての災いは、父なのか? 怪人なのか? いずれにしろ、この急な坂を下った先にそれは待っているのだろう。
 堀とは名ばかりのドブ川を越え、住宅地の迷路の中へ。ひとつ角を曲がると、不意に下校中の生徒の声が途切れた。耳を澄ますと、死角の向こうにざわめきは遠のいてゆく。目の前にはさらに角がふたつ。どちらも先の見通しはわるい。
 聡美は静かに唾を飲んだ。
 掠れて消えかけた〝止まれ〟の路面標示の上に、薄っすら闇がひそんでいる。
 息を殺してその角をやりすごすと、狭い道なりのカーブの先に、もうひとつの闇がじっとりと待ち構えていた。
 もしそこに、緋色の目が待っていたら?
 それよりも今、首筋に包帯巻きの腕が伸びてきたら?
 ありもしない気配に怯えながら、聡美は背後をふり返る。やはりそこには、傾斜地に並ぶ夕暮れの家々だけがひっそり佇んでいた。そうしている間にも、じりじりと陽は沈んでゆく。ふり返り、角を曲がる。角を曲がって、またふり返る。
 ようやく住宅地を抜けたところで、キィキィとペダルを漕ぐ音がした。
 飛び出しかけた心臓を押さえてふり向くと、時代錯誤な豆腐屋の自転車が、気の抜けたラッパを鳴らしながら聡美を追い抜いて行った。
 ほぉ、と震える息が大きく漏れた。
 乱れた鼓動を落ち着かせながら、ふたたび県道を目指す。
 きっと、父は帰っている。
 たとえ聡美を待っていなくても、そこには帰れる場所がある。
 結局、聡美にはそれしか頼るものがなかった。父との関係が明るみに出れば、父は職を失い、聡美も路頭に迷うことになる。施設に入ることになっても、そんなものは居場所がなくなるのとおなじだ。父も、聡美も、聡美たちを追い詰めた奴らも、みんなみんな消えてしまえばいいが、それだって現実には不可能だ。聡美さえ我慢していれば、それで丸く収まるのだ。だから、急いで帰ろう。父の作ったおでんをふたりで食べ、今夜も人形になって呪われた儀式をやりすごそう。
 ほら、もう歩道橋だって見えてきた。
 この階段を上りきって、県道を渡って向う側へ。
 足元はだいぶ暗くなったけれど、まだ陽は落ちきっていない。コの字型に折れた踊り場を抜ければ、団地までひと息だ。
 けれど――
 やはりそいつは、じぃっと見つめていた。
 歩道橋の階段の天辺から、踊り場の聡美を見下ろしていた。
 だらりと垂らした日本刀が、鈍色に残光を照り返す。全身の包帯は、膿とも脂ともつかないシミでどこと言わず薄汚れている。
「ひッ……」
 反射的に出かかった怪人の名は、喉の奥で押し殺した。
 夕日に染まってなお赤い目が、聡美の視線と絡み合う。顔中の包帯から覗く、白目も黒目もない血色の眸だ。聡美は思わず身を引いて、硬直したまま後退る。心臓がギシギシ痛み、左手で制服の胸元を握りしめる。
 その左手を追って、ぐるりと赤い視線が動いた。
 なぜ、と思う間もなく聡美は身を翻した。今きた階段をひと息に駆け降りると、県道に沿って走り出す。嫌だ、嫌だ、嫌だ。わたしばっかり、どうしてこんな目に……問いかけると、ひさびさの頭痛と一緒に母の声が返ってきた。だから言ったでしょう? いや、そうじゃない。これはカヨちゃんの声か……ふり払おうと夢中で走るうち、ほどなく進んだバス停で折よくバスが捉まった。行き先も確認せずに飛び乗った。
 ブザー。アナウンス。閉まる乗車ドア。
 息をきらせて顔をあげると、乗客の視線が揃って聡美に向けられていた。混雑というほどではなかったが、車内の座席はすべて埋まっていた。その無数の視線に囲まれて、聡美はどうにか安堵の息を漏らす。これだけの人目があれば、怪人も追ってはこれまい。そう確信しながら、乗客の間をぬってよろよろと最後尾まで進む。
 すると一段あがった後部座席の窓側から、
「だ、大丈夫かい。お嬢ちゃん……顔色わるいけど」
 と、白髪の男の声がかかった。
 困惑しながら席を譲る男の申し出は、遠慮せずに受けた。それを待っていたように、バスはゆっくりと夕暮れの町に向けて発車する。
 そっと肩越しにふり返った歩道橋には、すでに怪人の姿はなかった。
 窓にそえた左手の包帯が、なぜか緩んで解けかけていた。

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伝怪 07 

伝怪

 そしてその日から、父はあっち側に行ったきりになった。
 厳密に言えば微妙に異なるが、聡美にとってはおなじことだった。父は聡美をあの忌まわしい母とつねに認識し、〝頭の中の母〟とふたりの暮らしを始めたからだ。
 朝起きて、朝食の支度をする。
 ふたり分の弁当を詰めて、大学に出勤する。
 夕方には家に帰り、おでんを作って待っている。ふたりでおでんを食べ雑談をし、そのあとは夢中になって研究の話をする。……延々とくり返す一見変わらない毎日。けれど聡美の存在は、はじめからなかったようにそこから抜け落ちていた。聡美を母の名で呼ぶ父は毎夜のごとく求め、聡美の中で果てるようになった。
「じゃあ、いってくるよ。マサミ」
 ドア越しにかけられる声は、まるで呪いの文言だった。
 聡美はベッドの中で縮こまり、今朝も父のその声を聞く。もう学校も、体調不良を理由に何日も休んでいた。それでも、「お大事にね……」とだけ告げる電話口の担任が、聡美の絶望を余計に煽った。お前に手を差しのべるものなど、どこにもいないのだ。そう宣告されたようで、追い詰められた思考がますます深い闇に落ちてゆく。
 ――自分の居場所は、完全に消滅した。
 聡美がそれを思い知るのに、時間はいらなかった。明日こそは、明後日こそはと歯を食いしばってみても、父がこっち側へ戻る気配はなかった。父の中の小さな世界には、母しかいらないとでもいうように。
(うぅん、もしかするとお母さんでさえ……)
 考えるとまた涙があふれ、天井がぼやけて滲んだ。この最後の砦の四畳半ですら、もはや安全地帯ではなくなった。あのアルバムのころまで時間を巻き戻し、〝母と新しい家族を作ろう〟とする、壊れた父を待つ地獄の窯へと変わり果てたのだ。
 そう、新しい家族。
 おぞましい妄想に吐き気をもよおし、聡美はベッドから跳ね起きた。部屋を飛び出すとトイレに駆け込み、へたり込んで便器を抱える。用意された朝食も弁当も手をつけていない聡美の胃袋は、昨夜から未消化のおでんを吐き出した。
 ようやく、儀式の本当の意味が理解できた。
 聡美を母に見立てた父は、聡美と子供を作ろうとしている。
 欠けてしまった〝妻〟という記号を聡美で埋め、思い通りにならない過去を封印し、家庭を築くところからやり直そうとしている。
 結局、父が欲しているのは〝妻〟と〝子供〟という記号だけだった。
 それが聡美の母である必要はなく、聡美である必要もない。無条件に自分を認め、自分を擁護してくれる場所。それが父にとっての〝家庭〟であり、妻も子供もそれを構成するただのパーツにすぎないのだろう。
 今さら突きつけられた真実が、聡美のこころを打ちのめした。父が守っていたのは、聡美の居場所などではない。父が縋っていたのは、自分のためだけに存在する、空っぽでひとりよがりな城……その残り滓だったのだ。
 ――お願いだから、自分の妄想を押しつけるのはやめて……。
 不意に母の言葉が蘇り、また吐きそうになった。
 お母さん……お母さん、お母さん。
 思わず出かかった声は、左手を強く噛んで押し殺す。今さら母に救いを請うなど、許されるはずもない。では、誰に?
 惑えば惑うほど思考はもつれ、聡美はトイレに蹲ったまま途方に暮れる。
 あからさまに奇異な行動でもあれば、周囲も気づいたかもしれない。だが父の言動は聡美の件を除けば比較的まともだ。訊ねれば自分の名前も年齢も答えるし、勤務先も大学名まで正確に言う。職場の人づき合いが乏しかったことも災いし、大学でも父の異変が悟られた様子はなかった。もとより近所づき合いが断絶しているのだから、私生活はなおさらで、聡美以外に事実を知るものはいない。
 改めて現実を認識し、聡美の背筋に悪寒がはしった。軽いヒステリーを起こして、左手に立てた歯に力を籠める。
(誰でもいい、助けて――)
 切実にそう念じた時、ほらね、と母の声がした。動揺する聡美が弾かれたように顔を上げると、空け放したままのドアの先に人影が見えた。短い廊下の奥に佇むその影は、リビングから漏れる日差しでおぼろげに揺らぎ、母かどうか判然としない。
 けれど影法師は、はっきりと母の声で言う。
「あなたは、いつだってそう。……自分勝手に人を軽蔑して、困るとすぐに手のひらを返す。本当に、いい性格してるわよね」
 え、と言葉を詰まらせ、聡美は影に目を凝らす。
 影は嘲笑うように、ゆらゆらと揺れた。
「でもまあ、自業自得かしら。あなたが自分でまいた種だし」
「違う、わたしは……」
「なにもしてないって? あはは――」
 心底おかしそうに明滅すると、影は一歩分だけ聡美に近づいた。
 それが現実のものでないことくらいわかっていたが、聡美はふり払うことも目をそらすこともできなかった。
「なんでも誰かのせいにする、って、私のこと馬鹿にするけど……あなたのそれは、どこか違うの? なにもしないのは、なにかしたのとおなじなの。まさかとは思うけど、知らなかったって被害者面すれば、全部許されると思ってるわけじゃないわよね?」
「そ、それは……」
「あぁ、思ってるんだ。気持ちわるいわね、それ」
 呆れ果てたようにまた影は揺らぎ、聡美は耳を塞いで首をふる。嫌だ。なにも聞きたくない。なぜ幻覚にまで、自分が責められなくてはいけないのか? それでもそれを許さないというように、影の母はさらに一歩分近づいてくる。
「教えてあげましょうか? あなたが酷い目に合うのは、あなたが弱いから。弱さを言い訳にして、強くなろうとしないから」
 ゆらり、また一歩分。
「だから、このまま破滅するの。弱いあなたは、今度も晒しモノになる」
 影が喋るたび、聡美の視界が点滅する。
 視界が点滅するたび、影との距離が縮んでゆく。
「実の父親と関係をもった娘として、死ぬまで蔑まれつづけなさい。だって仕方ないわよね? 今までの噂と違って、これは事実だもの。あなたの弱さがまねいた、否定しようのない事実……でも、それが嫌なら」
 気がつくと、影は目の前に迫っていた。手を伸ばせば届くほどに。
 その位置まできて、はじめて影の全貌がわかる。だがそれは、予想に反して母のものではなかった。蹲った聡美の目線にある、節くれた膝。そこからつづく、筋張った腿。骨盤の形がはっきり出た腰の上には、肋骨の浮いた胸があった。男……それも、全身を血脂じみた包帯で巻きしめている。そしてその上にある顔が――
「任せてしまいなさい、彼に」
 掠れた母の声を合図に、すとんと聡美の鼻先に突き出された。
 包帯の隙間から覗くまっ赤な目が、じっと聡美を見据えてくる。聡美は条件反射で顎を引き、息を詰めて目を見開いた。
「ひ、ぃ……」
 いきおいで仰向けに倒れた聡美は、そのまま白目を剥いて昏倒した。薄れてゆく意識の中で、奇妙な歌声を聞いたような気がした。トン……トン……トンカラ……トン……トントン……トンカラトン……それは母の声のようでもあり、またカヨちゃんの声のようでもあり、誰の声でもないようにも思われた。

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伝怪 06 

伝怪

 半狂乱になった、見苦しい剥き出しの女……ああ、そうか。今度はあの時、母の不倫が発覚した、小学六年のころの記憶だ。
「そりゃ、たしかに最初は、そんな浮世ばなれしたところが素敵だと思った! 大学講師って肩書にだって、アカデミックな響きがあったわよ! なのに、実際はどう? 稼ぎは少ないし、出世だってしない! 研究研究なんて言って、休みになるたびフラフラどこかへいなくなる! 家だって、いつまでもこんな団地暮らしで――」
 父をなじり飛ばすその姿に、聡美は絶句した。
 取ってつけた不満。ありきたりなセリフ。言動のひとつひとつが自分本位すぎて、子供の聡美でも吐き気を覚えたほどだ。
「それでも、私は我慢したの! いつもニコニコ笑って、良妻賢母でいられるように一生懸命つくしたわ! それを、なに? たった一度の過ちが、そんなに許せない? 他の男の手垢がついたから? ほんのちょっと、穴の形が変わっただけじゃない!」
 髪をふり乱し、夢の中の母は叫びつづける。
「お願いだから、自分の妄想を押しつけるのはやめて! あなたが、家族に執着してるのは知ってる。世間に認められない焦りを、家庭って幻想で埋めようとしてることも気づいてる……けど、なんで私がつき合わなきゃいけないの? 女であることを無視されて、母を強要される苦痛が、あなたたちに理解できる?」
 そうわめいて迫ってきた母の口からは、腐った水槽の臭いがした。
 きっと腹の中に隠した本性が、そんな異臭を放つのだ……掴みどころのないまどろみの底で、薄ぼんやりと聡美は考える。
 誘惑に耐えられなかった、脆くて弱い母。
 それを全部なにかのせいにする、無責任で汚い母。
 どんなにつらくても、自分は母のようにはならない。自分は決して〝魔に刺されたりなんか〟はしない。そんなものは、ただの言い訳だ。自分を甘やかすことしかできない人間の、都合のいい世迷い事だ。でも……
 夢の奥のもっと深いところから、誰かがそっと訊ねてくる。
「……本当に?」
 カヨちゃん、これはカヨちゃんの声だ。
「あの女の血を引いてるクセに、よく言えるね」
「そ、それは……」
 冷やかに言い捨てるカヨちゃんに、全身の血が一気に引いた。だって、それこそ聡美の責任じゃない。不倫をしたのは聡美の母であって、聡美はなにもしていない。それにそれを言うなら、カヨちゃんこそあの父親の――
「ほら、もう人のせいにしてる」
「あ……」
 言葉を失う聡美の前に、憎しみを籠めたカヨちゃんの目が近づいてきた。
 キィキィと癇に障る金属音が、どこかから聞こえてくる。
「結局、さーちゃんの決意なんて、その程度だよ。エラそうなこと言っても、人に迷惑かけることしかできないんだ。あの女みたいに。……だったらもう、開き直っちゃえばいいじゃない。人間なんてみんな、被害妄想のカタマリなんだから」
 さあ、とカヨちゃんの手が伸びた。
 なぜかその手には、ボロボロの包帯が巻かれていた。
「だから、早く呼ぶの……あの名前を」
 嫌だ、それだけは絶対。聡美は懸命に耳を塞ぐ。その手のひらをすり抜ける声が、ギリギリと頭をしめつけてくる。
「どうせ、あの母親から産まれた子なんでしょ?」
「裏ではこっそり援助交際してるって、本当なのかしら?」
「やっぱり、血は争えないわよねぇ」
 嘘だ、そんなことしていない。もう限界だ、カヨちゃんの家みたいに引っ越そう? 新しい場所で、親子ふたりでやり直そう? けれどふり返った父の眸は、どこか遠いところに焦点を合わせたままだった。
「……なに言ってるんだ、聡美? もし、お父さんたちまでここからいなくなったら、帰ってくる時にお母さんが困るじゃないか」
 そうして父は、おろおろ泣き崩れた。
 母の名を呼びながら、駄々をこねる子供のように地べたを這いずりまわった。
「マサミ、マサミ……すまなかった、マサミ」
 聡美は耐えきれなくなり、ついに夢からも目をそらす。
 もがき、あがき、青い闇から現実の世界に浮上する。だがそこにも、やすらぎなど待っていなかった。もがいて掴んだのは、聡美に覆い被さっている父の髪。あがいて絡んだのは、聡美に割って入ろうとする父の足。目の前に、父の顔があった。
「ごめんな、〝マサミ〟」
 ――違う、それは母の名前だ。
 半覚醒の意識の中、聡美は息を飲む。しまった、父のスイッチが入っている。無駄だと知りながら、一応の抵抗を試みた。泣きじゃくる父は、お構いなしに聡美のスウェットをたくし上げる。すぐにブラはずらされ、胸があらわになった。まだ成長過程にあるその小ぶりな乳房に、父がむしゃぶりつく。
「マサミ……マサミ、マサミ」
 うわ言のようにくり返される名前に、自然と涙が滲んだ。
 いつどうやって、スイッチが入ったのかはわからない。もしかすると夕飯の声をかけにきた父の前で、聡美がなにか寝言を口走ったせいかもしれない。あるいは、やはり月経の血が放つ雌の臭いが……両腕で泣き顔を覆いながら考えるが、もう遅い。なんにせよ、今夜の父は〝あっち側〟に行ってしまった。
 あっち側の父は、聡美と母の区別がつかなくなる。
 その傾向が表面に現れたのは、聡美が中学に上がったばかりのころだった。
 今日のように不意の生理が訪れたその夜、聡美は汚したパジャマを洗うため風呂場へ向かった。すでに零時をまわっていて、家の中は静まり返っていた。
 寝ている父を起こさないよう、足音を忍ばせた。
 そんな闇の中に、パタリとなにかを捲る音がした。身を縮ませた聡美は、条件反射で音の元をたどった。厚紙同士が当たる、小さくて籠った音。聡美の部屋と隣接するリビングから、その音は聞こえていた。
「お、父さん……?」
 こわごわ声をかけてみたが、返事はなかった。
 代りにもう一度、パタリと音がした。
 意を決してリビングに足を進めると、床に座り込んだ父の背中が見えた。月明かりだけを頼りに、なにかを食い入るように見つめていた。
「……お父さん?」
 ふたたび声をかけても、反応はなかった。時間ごと止まったように微動だにしない父の背中に、聡美はそろそろと近づいた。肩越しに父の手元を覗き込むと、そこには床に広げた古いアルバムがあった。
 聡美の知らない、まだ年若い父と母が写真の中にいた。
 聡美はその時、自分が声を漏らしたかはもう覚えていない。覚えているのは、いきなり首だけで振り向いた父の口から出た言葉だけだ。
「どうした、マサミ。こんな時間に?」
 瞬間、心拍数が上がった。
 聡美を透かして母を見る父の目は、あきらかに正気をなくしていた。パニックになった聡美は自室に駆け戻り、朝まで布団を被って震えていた。投げ出してきた汚れたパジャマは、次の朝きちんと洗濯されていた。
 この儀式が始まったのは、それからすぐのことだった。
 はじめての時は、破瓜の痛みとショックでなにもできなかった。次の時は抗ったが、頭脳労働とはいえ父も男だ。女の、しかも子供の力で、止められるわけもなかった。回数が重なるたび、少しずつ行為はスムーズになった。性器が傷つくのを避けるため、身体が勝手に反応するということを、聡美はあとになって知った。
 これで、何度目になるだろう……。
 組み敷かれ全身をまさぐられるうち、聡美は諦めて抵抗をやめる。母の名前を呼びつづけながら、父は聡美のスウェットを剥ぎ取ってゆく。胸から腹、腹から下へと這ってゆく舌の感触に、身をこわばらせて耐えた。
 ほら、大丈夫。こうしていればあっという間だ。
 目をつむって、じっと我慢すればきっと。
 この前も、その前も、そうやってずっと凌いできた。不安に押しつぶされて決壊した父を、聡美は受け入れると決めたはずだ。だって、父は最後の家族だから。聡美の存在を許してくれる、唯一の人間だから。
 明日の朝になれば、いつもの父に戻ってくれる。それを信じて、侵入してくる父の熱を堪えた。内側を掻きまわされる執拗な痛みに、意識がまた遠のいてゆく。ベッドが軋む音に混じって、耳障りな金属音が響いてきた。錆びついた自転車のペダルを漕ぐような、強引で脅迫的な音だ。キィキィ、ぎぃぎぃ、キィキィ、ぎぎぎ……落ちて行った、今度は深い眠りの奈落で、輪光をまとって白刃が閃いた。

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伝怪 05 

伝怪

 鉄製の玄関ドアの前に立つと、やはり中には父の気配があった。ほんの少しだけ逡巡した聡美は、音を立てないよう注意してドアを開ける。さっきの幻聴も気にはなったが、今は父の状態を確かめるのが先決だ。
 上がり框の先にはダイニングの入口が見えていて、すでに忙しく夕食の支度をする音が聞こえていた。ゆっくりと靴を脱ぎ、鞄を胸に抱いて近づいてゆく。おそるおそるキッチンの様子を窺うと、ふり向いた父がにっこりと微笑んだ。
「ああ、おかえり〝聡美〟」
「た、ただいま……」
 ちゃんと自分の名前が呼ばれたことで、ほっとして息を落とす。
 ……よかった、今日の父は大丈夫だ。
 それが確認できただけで、ひとまず安心できた。そうなるとおかしなもので、あれだけしつこかった頭痛も、嘘のように鳴りをひそめていた。気分もいくらか軽くなり、包丁をふるう父の手元をそっと覗き込む。下処理された牛すじ。丸のままのちくわ。練り物もいろいろ。半月切りの大根はたぶん、ガス台に用意されている米のとぎ汁で下茹でするところだろう。予想通りの、幸せだったあのころの味。
「は、はは、今夜はおでんでいいかな?」
「うん、お父さんのおでん……大好きだから」
「そうか、そうだよな」
 バツがわるそうな父の笑顔には、曖昧な笑みを返しておく。
 なぜなら献立がおでんになるのは、〝今夜は〟でななく〝今夜も〟だったから。それでも不器用な手つきで母の味を再現しようとする父に、涙があふれかけた。気取られないよう踵を返すと、聡美は背中越しに小さく声をかける。
「……その、毎日ありがとう」
「いいから、早く着替えてきなさい」
 照れくさそうに手をふる父には、きっと今の言葉は届いていない。
 明日の夕方にはまたおでんを作り、聡美に困り笑いでこう尋ねるのだ。
 ――今夜は、おでんでいいかな?
 聡美はこの二年間、そんな毎日をすごしている。毎晩父の作ったおでんを食べ、まったくおなじ世間話をくり返す。もっともそれは、図書館で見つけた小説がとか、昔読んだ詩集がとか、あたり障りない話題に限られるのだが。
 父のこころは、ずっとあのころに留まっていた。だとしても〝こっちの父〟でさえあってくれるなら、聡美はそれで幸せだった。
 大学講師である父は、このためだけに自分の講義を午前に集中させてくれている。市の郊外にある総合大学の分舎も、都内にある文系大学の本校舎も、かけもちしているふたつの職場、そのどちらもをだ。
 もちろん理由は、ひとり娘である聡美の面倒をみるため。
 教員の娘である以上、それがどんな意味かは聡美だって知っている。教授や助教授への出世の道も、そのための研究や学生の信頼も、すべてを諦めたということだ。そこまでして、聡美の居場所を守ってくれている。
 専門にしている文化人類学というのが、どんな学問なのかまでは詳しくわからないけれど、かつては習慣にしていた休日のフィールドワークすら、今は家事や聡美の相手をするためにやめてしまっていた。
 ただ、一度トラウマのスイッチが入ってしまうと……。
 とりとめもなく思考を巡らせて、その先を聡美は放棄した。不吉な想像をして、もし今夜も現実になったらどうするというのか。
 自室に戻ると、蛍光灯のスイッチを入れる。
 チカチカと点灯した白い光が、つつましい四畳半を照らし出す。
 強引に押し込んだベッドに、勉強机がわりのパイプデスクがひとつ。縦長のスリムな本棚には、教科書や参考書のほかに、いつの間にか集まった文庫や文芸誌が並んでいる。友達と話を合わせる必要のない聡美は、漫画の類はほとんど読まない。
 およそ中学生らしくない部屋だが、ここは聡美にとって最後の安全地帯だった。この殺風景な空間に身を置くだけで、全身の緊張が緩んでゆく。
 鞄を下ろし部屋着に着替えると、どっと疲れが出てベッドに倒れ込んだ。ゴロゴロした違和感はしつこく下腹部にまとわりついたが、ナプキンをする余裕もない。もうなにも考えるのが嫌になって、天井のクロスに目を泳がせる。
 やがて聡美は、うつらうつら眠りに落ちた。
 うたた寝の浅い夢の中で、聡美は小学三年生の子供に還っていた。
「ふぅん、包帯巻きの怪人ねぇ」
 興味深げに言ったのは、壊れてしまう前の父だった。ちょっと不満げに唇を尖らせる聡美の隣には、おなじく幼女のカヨちゃんがいて、期待に目を輝かせている。これは〝例の都市伝説〟のことを話したあの日の記憶だ。
「見た目は別として、話のディテールは通り物に似てるな」
 読んでいた本から顔を上げ、父は目を細める。パラパラとめくって示したぶ厚い文庫本の一ページには、異様に長い杖を斜に構える襦袢姿の老爺と、乱れた着物の日本髪を結った女の人が浮世絵タッチで描かれていた。たしかこの本は父のコレクションで、妖怪研究で有名な漫画家が描いた妖怪図鑑だ。
「とおり、もの……?」
「妖怪の名前さ。そういう民話や怪談を集めるのも、研究の一環だって言ったろ? 斬られた人は、ってクダリは派生形と思えなくもない」
 けれど得意顔で語り始める父の記憶は、どういうわけかノイズ混じりで再生される。妖怪と怪人……同様に……起源が……人間の脆さ……肩代わり……それに、痩せぎすで包帯巻きの……これは父の描いた……絵……ざらついた映像が復活すると、ともかく――と本を閉じ、父が聡美たちに向き直る。
「聡美はそれが気に入らないわけだ」
「だって、あんまり馬鹿馬鹿しかったから」
 ぷっと頬を膨らませた聡美が微笑ましかったのか、父は笑いながらつづける。
「まあ、わかるけど。この町の歴史は、教えたことがあったね?」
「……うん」
「じゃあ、そこにヒントがあるかもしれない」
 大学講師らしい小気味のいいテンポで、父の解説は進んだ。
 昔、とても大きな戦争があったこと。世界中を巻き込んだその戦争のお陰で、日本中が異常な活気と狂気につつまれたこと。
 戦争が泥沼の状態になったころ、この一帯にはたくさんの工場ができたそうだ。軍用トラックや戦闘機の部品を量産する無数の工場には、全国から労働力として人が集まってきたという。労働力や資材の運搬のため、線路が引き込まれ駅ができる。工員とその家族の居住区ができ、寮棟がつぎつぎと建設される。
 もともと荒れ野や田畑ばかりだったこの土地は、そうして市になった。
「といっても、点在してるいくつもの村を、無理やり合併させたんだけどね。そういうことが、当時の日本では普通に行われてた」
「それで、それでどうなったの!」
 無邪気に催促するのは、身を乗り出したカヨちゃんだ。聡美は微妙にずれてゆく会話に痺れをきらしたが、それを見透かしたように父が核心をつく。
「だから、都市伝説なんかも根強いんだな」
「……え?」
 いきなり結論を提示され、聡美は仰天した。一足飛びでいきなり結論に飛ばれると、人間はとたんに引き込まれるものだ。気がつくと聡美も、カヨちゃんとおなじように身を乗り出して話に耳を傾けていた。
「だってそうだろ? 住民が増えれば、より多くの物が必要になる。食べ物だって、着る物だって、それに娯楽施設だって」
「うん……」
「そうなると、お店ができて映画館ができて、病院なんかもできる。工場で働く人たちだけじゃなく、その人たちを相手に商売をする人が全国から集まってくるんだ。……ここまでは、言ってることがわかったかな?」
「……えっと、どうにか」
「よし。じゃあ、ここからが本題だ」
 満足そうに頷いて、父は自慢げに人差し指を立てた。話に興が乗ってくると、いつもやってみせる得意のポーズだった。
「いろんな土地から人が集まれば、自然といろんな文化も集まってくる。さて、聡美はどうしてだと思う?」
「……文化っていうのは、人の営みそのものだから」
「そう、よく覚えてたね。特に市の中心であるこの町はターミナルの役割も果たしてたから、生まれも育ちも違う人があふれ返って、ごった煮のような文化ができた」
「…………」
「やがて戦争が終わって工廠が解体されると、工場跡に企業や大学が入って、さらにその色合いが濃くなってゆく。工員の寮棟は公団に生まれ変わって、素性が異なるもの同士の情報共有……っていうと大げさかな? でもまぁ、そういう習慣が必須になった。そこで重要になってくる同期ツールが、噂話。どこそこで特売がとか、あそこの病院は腕がいいとか、そういう有用なものからデマや流言飛語にいたるまでね。人間の潜在的な恐怖や欲求を寓話化した、都市伝説もそのひとつだ。そんな歴史から、この町には〝噂が根づきやすい土壌〟というのがあって――」
 夢中になって話しつづける父に、「あぁ、またか……」と聡美は苦笑いした。
 身ぶり手ぶりをまじえ持論を展開する父は、いつの間にか当初の目的を忘れている。娘の疑問に答えるどころか、小学生にはとうてい理解できないような、小難しい言いまわしまで飛び出している始末だ。
 横目で盗み見ると、カヨちゃんもポカーンと口を開けていた。
 でも、これだっていつものこと。真面目で研究熱心な父は、頭もよくて面倒見はいいけれど、ちょっとマイペースなところがある。軽く肘でこづかれて隣をふり向くと、カヨちゃんも首を竦めていた。ふたりで顔を見合わせて、クスクス笑い合う。親友だったあのころの、人懐っこくてほがらかなカヨちゃんの笑顔。
 と――
「あなたの、そういう身勝手なところがもう限界なの!」
 そんな狂った母の声で、急に場面は暗転する。

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